2016/07/02

リヴァイアサン (Leviathan)

 全人類の一般的性向として、つぎからつぎへ力をもとめ、死によってのみ消滅する。永久不断の意欲をあげる。これらの原因は、かならずしもつねに、人がすでにえたよりも強度の歓喜をのぞむということではなく、またかれが適当な力に満足できないということでもなくて、かれが現在もっているところの、よく生きるための力と手段を、確保しうるには、それをさらにそれ以上獲得しなければならないからである。そしてここから、つぎのことが生ずる。すなわち、最大の力の所有者たる王は、国内では法により、国外では戦争によって、それを確保すべく努力し、それがなしとげられると、あたらしい意欲がそれにつづくのである。ある王は、あたらしい征服による名誉を、他の王は、安楽と肉感的なたのしみを、また他の王は、ある芸術やその他の精神の能力がすぐれているとしょうさんされへつらわれることを、欲するのである。
 平和の原因にたいする無知よって、人々は、すべての事件を、直接にして手段的な原因に帰せしめようとする。かかるものが、かれらがかんがえる原因のすべてを、直接にして手段的な原因に帰せしめようとする。かかるものが、かれらがかんがえる原因のすべてであるからである。そして、ここからつぎのことが生じる。すなわち、あらゆるところで、公共体への支払いをなげく人々は、かれらの怒を、収税者、すなわち微税請負人や徴収に人、およびその他の公収入役人にたいして注ぎ、そして、公共体統治の欠点をさがすような人々につきしたがう。さらに、こうして、正当とされる可能性のないことをしたばあいには、罰せられることのおそれや、寛恕をうけることのはずかしさのたるに、至上権威をも攻撃するのである。
 社会状態のそとには、つねに各人対各人にの戦争が存在する。人々が威圧しておく共通の力なしに、生活していねーる時代には、かれらは戦争と呼ばれる状態にあるのであり、かかる戦争は、戦闘や闘争行為のみに存するのではなく、戦闘によってあらわそうとする意志が十分にしられている期間に、存する。そして、したがって、時間の概念は、戦争の本質に関しては、不良な天候の本質は、ひと降りふた降りの雨にあるのではなくて、おおくの日をいっしょにした、それへの傾向にあるのであるが、それとおなじく戦争の本質は、実際の闘争に存するのではなくて、おおくの日をいっしょにした、それへの傾向にあるのであるが、それとおなじく、戦争の本質は、実際の闘争に存するのではなくて、その反対にむかうなんの保証もないときの全期間における、それへのあきらかな志向に存するのである。その他のすべての期間は、平和である。
 人々を平和にむかわせる諸情念は、死の恐怖であり、快適な生活に必要なものごとへの意欲であり、かれらの勤労によってそれらを獲得する希望である。そして、理性は、平和にかんする、つごうのよい諸条件を示唆し、人々はそれについて協定するようにみちびかれる。これらの諸条件は自然の諸法とよばれるものである。
 正義および不正という名辞が、その地位をもちうるためには、そのまえにそこになんらかの強制力があって、人々が新約破棄から期待する利益よりも大きな罰により、かれらに平等にに信約履行を強制しなければならず、かつまた、人々が相互の契約によって、かれらが放棄する普遍的権利のかわりに獲得する、所有権を、維持しなければならない。そのようなような力は共和政体(Common Wealth)の樹立以前には存在しないのである。そして、このことは正義についてのスコラ学派の通常定義からも推察されうる。かれらのいうところでは、正義は各人に各自のものをあたえようとする不断の意志である。したがって、各自のものがないばあい、すなわち所有権がない場合には、不正義は存在しない。また強制力が樹立されていないところでは、すなわち共和政体がないところでは、所有権は存在しない。すべての人々は、すべての物にたいして権利を有するのだからである。そこで、共和政体がないところでは、なにごとも不正ではない。このようにして、正義の本質は、有効な信約をまもるところに存するが、信約の有効性は、人々をしてそれをまもらせるのに十分な、社会的権力の設立によってはじまり、それと同時にに所有権もまた、はじまるのである。
 わたしは、人間の性質を、かれらの統治者のおおきな力といっしょに、のべてきた。神は、リヴァイアサン (Leviathan: ヨブ記第41章)の大きな力をのべて、かれを高慢の王とよんでいる。地上においてかれと比較されるべきものもない、かれはおそれをもたすようにつくられている。かれはすべてのたかいものをみくだし、あらゆる高慢の子たちの王である。

トマス・ホッブス