2人の高級将校には、実験のため片肺摘出手術をすると話し合う。ポキポキと肋骨が5・6本切り取られるた。片方の肺臓が摘出された。「人間は片肺でも生きられる」と説明している。手術台の上に2人目の捕虜にエーテルの全身麻酔を充分にかけている。紫紅色の薄汚れた海綿体のような肺が取り出される。透明な輸血が血液の代用剤として実験敵に使用されて、軍医による抜血で生命を奪われた屍体が乗っている。血液が取られ、南京虫に殺虫剤と血液を一緒にして食べさせた。3人目の捕虜には、エーテル麻酔がかけられる。ウィリアム・アール・フレドリック少尉は、胃の手術のために胸骨の先端からヘソまで一直線に開腹され、ボギボギと音をさせて肋骨の何本かが切除される。心臓を停止して5分間心臓マッサージをし、蘇生できるか実験する。4人目の捕虜は肝臓の手術をする。腹膜が開かれ、胆のうが開かれ、胆のうのそばの大きいのが肝臓で、血の塊であり、メスを入れるが縫合はできない。その一分を切除しようとしていたが、血圧が下がる。その日も血液を撮り瓶に入れる。棺桶に入れられて2、3日間実習室に放置されていた。
海軍大将の肩書を持つ百武源吾が九大総長に就任して以来、軍の配下に置かれる。5月25日、1人の捕虜が連行され実習台の上にのぼる。頭部の3分2が剃毛されて、頭蓋骨が糸鋸で口字型に開かれて、顔面神経痛の手術が行われた。切開の箇所が違って、出血多量で致命傷となって息を引き取る。6月2日、股に切開の傷、他2人は胸と下腹部にも傷があった。戦争の飛散と愚劣により8名の捕虜が死んだ。大森軍医は30代半ばの豪放崩落な人物であった。外科医の手術は等しく認める。なぜ吸血鬼に化したか謎である。6月19日、大森軍医は西部司令部の門前で右大腿部に焼夷弾が命中する。一夜にして福岡市の7割が焼けた朝、九大に運ばれ、右足切断となった。7月9日、20日間余り苦痛にさいなまれて、桃太郎さんを口ずさみ息絶えた。6月20日、B29搭乗員8人が処刑される。8月15日、油山で17人処刑される。
1945(昭和20)年8月15日、日本は無条件降伏し、戦死者204万人、民間人110万人、空襲による死亡20万人、被災都市96、消失家屋143万戸であった。ワトキンズ機長は8月17日に釈放されていることが大本営より判明した。敗戦と同時に隠ぺい工作の指揮の乗り出した。関係書類は一括消去する。民間人の骨をもらい、福岡空襲で爆死と16名を市内の陸軍墓地に埋葬する。8名が広島の原爆で死亡、31名が飛行機墜落、全員が死亡と工作する。1946(昭和21)年7月12日連合軍から九大教授8名に逮捕命令が出る。石村教授はベルトで首を吊って死んだ。鬼才と呼ばる存在であった。
54歳の小間使いの証言では、2つの遺体の首が切断され、腹は六寸決断されていた。肝臓の人食の探索がされる。「九大生体解剖事件」をいやがうえにも猟奇的な残虐行為として、人々を驚かせた事件であった。肝臓を食べた点を大見出しにあつかう。西部軍の偕行社病院の宴会で肝臓料理が出た事実がある。醤油で煮てあった豚の肝臓の方が人間よりも薄い色をしていたらしく、味では区別つかなかった。1948(昭和23)年8月27日判決された。絞首刑は西部軍の元司令官 横山勇、参謀大佐 加藤直吉、九大関係では高須太郎、広岡健三、森岡良雄が終身刑、森田健治、千田加孝、平光教授が重労働25年の刑を受ける。平光教授が巣鴨の拘置所を出たのは1955年11月27日でも約9年6か月の獄中生活であった。B29搭乗員を生体実験で殺害したのは中央からの指示で「適宜の処置」を部下が誤解したことから生じた。