人類の平和は、時代人心の渇仰であるのみならず、実に時勢の傾向として特に世の学者経世家が注目に値すべきものである。しかるに今や、オランダのハーグにおいて第二平和懐疑の開催を見る。吾人の如き平和主義者のためには、実に好箇の武器を提供したるものと言わねばならない。
あえて平和主義というといえども、もとこれ列国における戦争党の会合ではないか。戦争を商売とする軍人、戦争を摘発する政治家、戦争に裏書する学者とが、燃ゆるが如き敵愾心を抱いて、一堂に会合するのである。戦争に対する痛切なる恐怖のほか、真の平和に対する渇仰に至っては寸毫だも有するものではない。従ってその会合の大仕掛にして壮麗なるにも似ず、人類の平和幸福に対しては、一つ積極的効果を止めずして、会議を終結するの滑稽を見るに至るや、決して怪しむに足らぬ。しかり、当代の権力階級が名をを人道に仮りてする舞踏は、独り平和主義とは言わず、すべて人事百般の施設において同様である。
いやしくも現代の権力階級が、時勢に動かされ人心の要求に促されて、名を平和主義に仮りたる以上、その実際の如何に係わらず、彼等は必ずやこの会合に於いて、到底除外すべからざる一要素あることを忘却してはならぬ。たとへ心中一種の不快を感ずるとしても、この一要素のためにぜひともその一席を分与せなければならぬ。然らば一要素とは何んであるか。これすなわち真に平和を渇望し、真に平和実現のために努力健闘しつつある労働団体の代表者で、平和会議が、この代表者を有せざる限り、それは幾回の熟議を重ねるとも、遂に滑稽に始まりて滑稽に終わる一場の喜劇に終わるであろう。
真に一場の滑稽劇にすぎぬ! されど吾人はその内に、神聖なる時勢の暗示を黙会することができる。満潮の如き人心の大渇望を見ることができる。然り、この点よりして平和会議は現代の文明に対して、一大警鐘を打ち鳴らすものといわねばならない。
おもうに平和はいがいの辺より来るであろう。今日囲碁、世界平和の創造者、人類統一の主体は、決して権力階級でなく、むしろ今日まで戦争の弾丸として使役され来たれり平民階級その人であるに相違ない。ながき犠牲と苦痛の間に、真に平和と協働と博愛とを渇仰する平民階級の手と手が、在来の国際的偏見を超越して、互に温かき握手をなす時、誰か、平和の降臨を否むことが出来ようか。
吾人は単にこの見地よりしても、まさに開かれんとする、スッツドガルドの万国社会党大会に7、無限の興味と希望を有するものである。観よ、東天は既に紅を呈して、平和の神は、巨人の歩みを挙げたではないか。