「わたしのパパ、わたしの目から見ても世界一すばらしいパパは、36のときにママと結婚しました。ママはその時25才でした。お姉さんのマルゴーは、1926年に(オットー・フラ
そのあとわたしが、1929年6月12日に生まれました。」(オットー・フランク)
「ある朝ふとみると、アンネは雨が降りそぼつバルコニーに出て、水たまりの中で嬉々として声を上げていました。私が叱っても一歩たり動かず、ただお話を聞かせてもらうのをまっていました。」(カティ・シュテイゲンバウワー)
「私の周りの世界が崩れてしまった。この現実に直面しなければならない。私にとってとてもつらいことだったが、ドイツは我々の住むべき世界でないと判断し、永遠に去ることにした。」(オットー・フランク)
「わたしたち一家ユダヤ人なので、1933年にドイツを出て、このオランダに移住し、パパはジャムを製造しているオランダ・オペクタの社長になりました。」(アンネ・フランク)
「私たちが一緒にいるところを見られたら二人とも逮捕されるだろう。」(オットー・フランク)
「ドイツに残ったわたしたち一族のほかの人たちは、ヒトラーのユダヤ人弾圧のあおりを直接に受けて不安な生活を送っていました。あちこちでユダヤ人の虐殺が始まると、ふたり(オットー・フランク)のおじさんはアメリカに逃げ、お祖母ちゃんもわたしたちのところに来ました。その時73歳でした。」(アンネ・フランク)
「1945年9月からは、いよいよ急な坂をころげ、おちるように、事態は悪いほうへ向かいました。まず戦争、それから降伏、続いてはドイツ軍の進駐。わたしたちユダヤ人にとって、いよいよほんとうに苦難の時代が始まったのは、この頃からでする。(アンネ・フランク)
「この隠れ屋は、身を隠すには、理想的なところです。床がわずかに傾いていますし、湿気ねひどいですけど、こんな快適な隠れ場所は、アムステルダムじゅう探したって、いえ、オランダしじゅう探したって、ほかにはないでしょう。」(アンネ・フランク)
「いずれにせよ、戦争が終わったなら、とりあえず「隠れ家」という題の本を書きたいと思っています。うまくかけるかどうかわかりませんが、この日記がそのために大きな助けになるでしょう。」(アンネ・フランク)
「私にとってこの劇は人生の一部であり、自分だけでなく妻や子どもたちまでもが舞台で演じられると思っただけで心が傷みます。ですから、とても観にいくことはできません。」(オットー・フランク)
「アンネの書いたものによって、あなたが今後の人生を通じて、できる範囲でいいですから、平和と和合のために努力してくださればと祈ります。」(オットー・フランク)