2017/12/31

Even a religion makes a human perfect paths, so it can only assimilate ourselves to Kokutai and refuse a human not to be assimilated.

 近頃神社において戦勝祈祷などを行ったことについて、キリスト教側のものから、宮内省に反抗的の建言書を提出したということだ。趣旨は神社をもって常々宗教以外だといっていながら、戦勝祈祷の如き宗教的形式のことを、ここに行うのは不都合だという意味であるような。これについて、我らも考を定めて置かねばならぬ。予の考では、我国において神を祭り、神を念ずるのは、つまり祖先の霊に対して同情を求めるのである。つなわち物質的の効験があると思惟するがためではない。ちょうど我々友人同士が、何か苦痛や心配のある時、話し合って慰籍を得ることがあるのと同一である。しからば、我国においては、一番勢力(エネルギー)を蓄積された皇室、その皇室の祖神に向かって祭祀もし、祈念するのは当然ではないか。今後世の中が進歩すると、信神ということは神の同情を求めることに帰着するよ。要するに、いかなる宗教でも、人間の道を完全にしようとするのだから、これが悪い、あれが悪いとは言わぬ。唯我国が国体に同化すれば良い。同化しえないものは斥けるより仕方がない。
大正3年「杉浦重剛座談録」

2017/12/30

The customs shall give victors any freedom to achieve extraordinary any things and even allows them to receive praise.

 実際人は次のようなことを熟慮すべきである。明らさまに愛するのはひそかに愛するよりも美しく、しかももっとも高貴にもっとも優秀な者をーたとい彼が他のものよりは顔貌が醜いにせよー愛するのは特に美しいといわれていることを。さらにまた、万人が恋する者に与うる異常なるーしかも何か醜悪な行いのあった者には決して与えられぬごときー鼓舞を。かつ恋愛における成功は誉とせられるが、その不成功は恥辱とせられる。慣習はさらにまたその勝利者となるためならば異常事を行うあらゆる自由を愛者に与え、しかもそれに対して賞賛を受けることすら許している。ところがこの行為は、もし誰かが何かこれ以外の目的を追求して、これを達成するためにあえて為したとすれば、フィロソフィヤから非常に手厳しい非難を招かずにはいられぬ種類のものなのである。

プラトン「饗宴」

2017/12/29

When the woods and trees rub against each other, the fires start to burn, which melt the metals and flow out them.

 木と木とが摩擦しあうと、火が出て燃えあがり、金属と火とをいっしょにしておくと溶けて流れ出す。陰の気と陽の気とがその運動を乱すと、天地が変動して、ここに雷鳴がとどろき稲妻が走る。木のなかに火が生まれて、そこで槐の大木も焚けおちる。ひどい心配ごとがあると、内外両面ともに悪くなってのがれようもなく、落ちつきなく気づかいをするばかりで安らぎも得られず、心はまるで天地のあいだで宙づりになったようである。沈鬱な混乱のなかで利害の情がせめぎあうと、体内の熱は火となっていよいよ燃えさかり、人々はそのために本来の和気を焚きつくしてしまう。陰性の月はもちろん火には勝てないものでだ。こうして、崩れ落ちるようにして体内の真実の道はつき果ててしまうことになるのだ。

第26 外物編「荘子」第四編 (雑編)

2017/11/29

The reason itself respects the prejudices and customs sacred by the experiences of human race.

 一体我々の祖先たちの事を知り、これを記録に留めようという欲求が、一般に極めて盛な所を見ると、これはきっと人々の精神に対する或る共通原理から来ているに違いない。我々は、何だか自分自身が我々の先祖として生きていたような気持ちになり、この理想の寿命を少しでも長いものにしようとして、虚栄心が骨を折り且つやがて満足するのである。我々の想像力は、自然が我々を閉じ籠めた狭隘な世界を拡大しようと絶えず活動している。普通一人の人間には五十年乃至百年が許されるに過ぎないが、我々は一面宗教や哲学の教える希望によって死を超越し、他面我々の生を創り出した先祖と結びつくことによって我々の誕生以前に在る沈黙の空虚を充実させる。古い優れた家系に就いての矜恃というものは、もっと冷静な批判をこれに加えたところで、幾分和らげられるに留り決して抑圧されない。よし風刺文学者が嗤笑し、哲学者が説教しようとも、人類の経験によって神聖にされた諸々の偏見や習慣を、「理性」そのものが尊敬するのである。自分が内心ひそかにあやかりたいと思っている強味を他人が持っている時、本心からこれを軽蔑し得る人は極く辛である。遠い昔からの我一門に就いて知っているということは、誰にも彼にも出来るものではないから、抽象的に立派なものとしていつも尊敬されるであろうが、百姓や職工の系図がどんなに長く続いていてもその子孫の矜恃に大した満足を与えはせぬであろう。我々は祖先を発見したいと思うが、而も彼等が裕かな財産を持ち、誉高い称号に飾られ、世襲貴族の階級に於て高位に在る所を発見したいと願う。而もこの階級を人々は、地球上の殆ど凡ゆる風土を通じ、又殆ど凡ゆる種類の政治社会に於て、最も賢明且つ有益な目的から、保存して来ているのである。

エドワード・ギボン「ギボン自叙伝  ー 我が生涯と著作との思い出 ー」

2017/11/26

Instead of seeking vainly fortune from destruction or receiving wellness from others, you shoud train Budism as much as possible to be alive according to your citizens.

 答えて云く、但夫れ衲子の行履、佛祖の家風を学ぶべし。三國ことなりといへども真実学道の者いまだ此の如きの事あらず。只心を世事に執着すること莫れ。一向に道を学すべきなり。佛の言く、衣鉢の外は寸分の貯へざれ、乞食の余分は飢たる衆生に施せ、設ひ受け来るとも寸分も貯ふべからず。況や馳走あらんや。外典に云く、朝に道を聞いて夕べに死すとも可なりと。設ひ飢へ死に寒へ死すとも、一日一時なりとも佛教に随ふべし。万劫千生、幾回か生じ幾度死せん。皆な是れ世縁妄執の故へなり。今生一度佛制に随て餓死せん、是れ永劫の安楽なるべし。いかに況や未だ一大蔵教の中にも三國伝来の佛祖、一人も飢へ死にし寒へ死にたる人ありときかず。世間衣糧の資具の生得の命分ありて求に依ても来らず、求ざれども来らざるにも非ず。只任運にして心に挟むこと莫れ。末法なりと謂ふて今生に道心発さずば、何れの生にか得道せん。設ひ空生迦葉の如くにあらずとも、只随分に学道すべきなり。外典に云く、西施毛嬌にあらざれども色を好む者は色を好む、飛兎縁耳に非ざれども馬を好む者は馬を好む、龍肝鳳髄にあらざれども味を好む者は味を好む。只随の賢を用るのみなり。俗なを此の叢林、人天の供養絶へず。如来神通の福徳自在なるも、馬麦を食して夏を過しましましき。末法の弟子、豈に是を慕はざらんや。
 問て云く、破戒にして虚く人夫の供養を受け、無道心にして徒に如来の福分を費やさんより、在家人に随ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんことを如何ん。

懐 奘「正法眼臓随聞記

2017/11/25

The kingdom where the sun came up conveied all things within voices, but the kingdom that dropped down signed the traces.

 これの日いづる國はいつらのこゑのままにことをなして、よろづの事をくち豆からいひ伝へるくに也、それの日さかる國は万づの事にかたを書てしるしとする國也、かれの日の入國はいつらばかりのこゑにかたを書て、万づの事にわたし用いる國也、かかるに此くににのみかたを用ざるを疑ふ人あるはいまだしかりけり、なぞといはば、日放る國人は巧みなる事を好むより、言もおのづから一こゑのちに多きことわりのこもれれば、かたなくはことゆかじ、されども千よろずの声に繪を作れるはうたてあり、日の入國はこまやかなる思ひかねを好むからに、事も音も従ひてさはなれば、こもかたを用めり、されどもただいつらばかりの音のかたもて万づにうつしゃるべくせしは、こまやけく思い兼たる也、これの日出る國はしも、人の心なほかれば事少く言もしたがひてすくなし、事も言も少なければ惑ふこともなく忘るる時なし、故天つちのおのづからなるいつらの音のみにしてたれり、なぞも人の作れるかたを待てものをなさめや、しか有を此いつらの音をつらねいふは、日の入国にならへりといふ人有こそうこなれ、此國の古へ人こととはざらんや、こととふは天地のちちははの教え也、かれしらずしらず此いつらの音もあるめり、且しか思ふ人は時代をも思はず、おのが國のふることをしらで、他の國の事をなまなまに聞いていへる也。
加茂 真淵 ( 語意 ひとつ )「語意・書意」

2017/11/24

The Christians were the worst enemies against Indians in south America, not only to be a crazy beast, but also to drive human race to ruin .

 私は頭株の人たちや領主が四、五人そして火あぶりにされているのを目撃した。彼らは非常に大きな悲鳴をあげ、司令官を悩ませた。そのためには、安眠を妨害されていたためか、いずれにせよ、司令官は絞首刑にするよう命じた。ところが、彼らを火あぶりににしていた死刑執行人よりはるかに邪悪な警吏の望みとおり、じわじわと焼き殺した。
 私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変らず、人類を破滅に追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道でも血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に篭ったり、山の奥深く逃げ込んだり、身を守った。すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した。
 インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害することは稀有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺せば、その仕返しに100人のインディオを殺すべしと掟を定めた。
ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」

2017/11/23

The argument of right and bad is extremely difficult, with arguing from the original, there is neither right nor bad.

 翁曰、善悪の論は甚だむずかし、本来を論ずれば、善も無し悪もなし、善といって分つ故に、悪という物できるなり、元人身の私より成れる物にて、人道上の物なり、故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒地を開くを善とし、田畑を荒らすを悪となせども、猪鹿の方にては、開拓を悪とし荒らすを善とするなるべし。世の法盗を悪とすれども、盗中間にては、盗みを善としこれを制する者を悪とするならん。しかれば、如何なる物これ善ぞ、如何なる者これ悪ぞ此理明弁し難し、此理のもっとも見安きは遠近なり、遠近というも善悪ともいうも理は同じ、例えば、杭二本を作り一本には遠と記し一本には近しと記し、この二本を渡してこの杭を汝が身より、遠き所と近き所と、二所に立べしといい付ける時は、速やかに分かる也。予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処にぞある」とこの歌善きもあしきもなかりけりという時は、人身に切なる故に分からず、遠近は人身に切ならざるが故によく分かる也。工事に曲直を臨むも余り目に近すぎる時は見えぬ物なり、さりとて遠近てもまた、眼力及ばぬ物なり。古語に遠山木なし、遠海波なし、といえるが如し、故に我身に疎き遠近移して諭すなり。夫遠近は已が居所先に定まりて後に遠近ある也。居所定らぜれば遠近必なし、大阪遠しとはいはば、関東の人なるべし、関東遠しとはいはば、上方の人なるべし。禍福吉凶是非得失みなこれに同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つなり、元一つなる物を半を善とすれば死の悲しみはしたがって離れず、咲きたる花の必ちるに同じ、生じたる草の必ず枯れるにおなじ。

二宮 尊徳「二宮翁夜話」

2017/11/22

Peoples who can not feel the smallness of the great thing in them may tend to ignore the greatness of the small things in others.

   おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道 ー わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術 ー について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
 いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのではないとしても、蓮の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。
岡倉 覚三「茶の本」

2017/11/21

While those in the East will lose their discrimination instead of the unification, those in the West will forget their unification instead of the discrimination.

 ドイツ思弁哲学は古へのソロモンの智慧と正反対を成している。これは日の下に新しき何ものもないと見るに引きかへ、それは新しきもののみを見る。東方の者は統一のために差別を見失うに引きかえ、西方の者は差別のために統一を忘れる。彼らは永久に一様なものに対する自己の無関心を、愚妄の無感情にまで押し進めるに引きかえ、之れは多種多様なものに対する自己の感受性を、恣まな想像の病熱にまで高める。ここにドイツ思弁哲学というは、現在支配的ある哲学 ー ヘーゲル哲学を特に意味するのである。けだしシェリング哲学は本来一の外来種 ー ゲルマンの土地に育った古への東方的同一性 ー であって、従ってシェリング学派の東方に対する性向は、この学派の本質的性向であるのと同じく、その反対に、西方に対する性向と東方の卑下がヘーゲル哲学とその学派との特徴なのである。同一哲学の東方主義に対し、ヘーゲルの特徴的要素は差別という要素である。

ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ「ヘーゲル哲学の批判」

2017/11/19

When you forgive the bad, it does not match with the penalty of the bad naturally, but it is justice because it agrees with your charity.

 汝が悪人を罰したまうこともまた義である。何となれば善人が善を、悪人が悪を受けることよりも以上に、善なることがあろうか。しからば汝が悪人を罰したまうことも義であり、汝が悪人を赦したまうことも亦義であるのは、如何にしてであるか。汝が悪人を罰したまふのも義であり、汝が悪人を赦したまうのも義であるが、しかもそのあり方はお互いに異なっているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまうのも義であるが、しかもそのあり方は互いに異っているのであろうか。というのは、汝が悪人を罰したまう時には、悪人の当然報いられべきものに合致するが故に、それは義なのである。しかし汝が悪人を赦したまう時には、それは、悪人の当然報いらるべきものに合致するが故にあらずして、かえって汝の仁慈に一致するが故に、義なのである。何となれば汝が悪人を赦したまう時、われわれの方からすればさうではないが、汝の方からすれば義でありたまうからである。それはあたかも汝がわれわれの方からすれば憐憫をもちたまうが、汝の方からすればもちたまうのではないと同様である。これが、義によっては汝が滅ぼしたまうべきわれらを、救いたまいて ー 汝が感情の動きを感じたまうからではなくして、われわれがその効力を感じるが故に ー 憐憫ふかくありたまう理由であり、それと同様に ー われわれに、当然の負目を報いたまうからではなく、かえって最高の善である汝に応わしきことを為したまう故に ー 義にまします理由である。それ故にかくの如く矛盾なく、汝が罰したまうことも善であり、赦したまうことも義である。
聖アンセルムス「プロスギオン」

2017/11/16

Sometimes there is a voice in the mind with hearing it, making it thin, hardly distinguishable, difficulty, and still wanting to listen carefully, but there is no voice as long as the mind sinks.

  時に声あり胸中に聞ゆ、細くして殆ど区別し難し、尚ほ能く聞かんと欲して心を沈まれば其声なし、然れ共感霊懐疑と失望を以て余を挫かんとする時其声又聞ゆ、曰く「生は死より強し、生は無生の土と空気とを変じアマゾンの森となすが如く、生は無霊の動物体を取り汝の愛せし真実と貞操の現象となせし如く、生は人より天使を造るものなり、汝の信仰と学術とは未だここに達せざるか、此地球が未だ他の惑星と共に星雲として存せし時、又は凝結少しく度を進め一つの溶解球たりし時、是ぞ億万年の後シャロンの薔微を生じレバノンの常磐樹を繁茂せしむる神の楽園とならんとは誰が量り知るを得しや。最初の博物学者はけむし変じてまゆと成しときは生虫の死せしと思ひしならん、他日美翼を翻へし日光に逍遥する蛾はかつて地上に匍匐せし見悪くかりとものなりとは信ずる事の難かりたらん。暗黒の時代より信仰自由と代議政体が生まれ、「三十年戦争」の劇場として殆ど砂漠と成しドイツこそ今は中央ヨーロッパの最強国になりしにあらずや、地球と人類が年を越ゆる程生は死に勝ちつつあるにもあらずや、さらば望と徳とを有し神と人とに事えんと已を忘れし汝の愛するものが今は死体となりしとて何ぞ失望すべけんや、理学も歴史も哲学も皆希望を説教しつつあるに何ぞ汝独り失望を信ずるや」。
内村 鑑三 (愛するものの失せし時)「基督教徒のなぐさみ」

2017/11/14

People who have a custom of confusing judgments and recognizing no cause will have a difficult understanding that an existence belongs to the nature of the main body.

  物について混乱した判断を下し、また物をその第一の原因から認識する習慣が無い人々には、疑も無く、定理7 (本体の性質には存在が属する ) を理解することが困難であろう。なんとなれば、彼らは本体の様態と本体自身との間に何らの区別も立てず、また物が如何にして生じるかを知らないからである。その結果彼らは自然物に始が有ると思うゆえに、本体にも始が有ると考えている。何となれば、物の真の原因を知らない人は、すべての物を混同して、平気で、樹木が人間のようにものを言い、また人間が種子から生じ或は石から造られ、また一般にすべての形相が他の任意の形相に変じ得ると想像するからである。同様に、神性を人間性と混同する者もまた、如何なる仕方で感情が精神の中に生ずるかをまだ知らない間は特に、無造作に人間感情を神に帰する。

 これに反して、もし、人が本体の性質に注意を払ったならば、定理7の真理はもう疑われないであろう。実に、この定理は彼らに公理として認められ、一般概念の中に数えられるであろう。なんとなれば、彼らはかくてか本体を、自身の中に在りかつ自身によって考えられるもの、すなわち、その認識が他の物の認識を要しないものと解し、様態をば、他のものの中にあり、かつその概念がそれを包含する物の概念を予定するものと解するからである。そのために、われわれは存在しない様態についても、真の観念を有することができる、その故は、それらの様態は悟性の外に現実に存在しないけれども、その本質が他のものの中に含まれ、かくてこれによって考えられることができるからである。

バールーフ・デ・スピノザ「哲学体系 (原名 倫理学)」

2017/11/11

There is no death in existence itself, but there is death within the eyes that can not see a life of their mortal observer.

 存在ー存在と我はいうーと生とは、これもまた同一のものである。ただ生のみが独立的に、自己自身によって現存することができる。しかしてまた生は、生である限り、現存を伴うものである。普通には人は存在を、動かない、凝固して、死んだものとして考える。哲学者さえもほとんど例外なくそう考えて来た。存在を絶対者として言い表した場合でさえそう考えていた。このことは全く、人が生きた概念を以てにあらず、死んだ概念を以て存在の思索に向かったことに基づく。存在それ自体の中に死があるのではなく、死せる観察者の、生を見る力なき眼に死が存する。この誤謬の中に他のすべての誤謬の根源が存在し、此の誤謬のために、真理の世界、精神世界が永遠に我々の眼から閉ざされているのである、ということは、他の場所において、少なくともそれを理解し得る人々には、説明しておいた。このところにおいては、この命題の歴史的引用のみで充分である。
 これと反対にー存在と生とが同一のものである如く、死と非存在も同一のものである。上に述べた如く、純粋の死、純粋の非存在というものはない。しかし仮象というものはあるのであって、これは生と死、存在と非存在、との混和である。このことからしても次のことが帰結する。すなわち仮象の内部にあって仮象をして仮象たらしめるもの、仮象の中、真実の実在と生に対立しているもの、かかるものに関して言えば、仮像は死であり、非存在である。
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ「浄福なる生への指教」

As the nature of Battles required resistance and called for resistance, the advanced passion simillary belonged to strength.

 戦はまた別個の物である。私は私の流儀から見て戦闘的である。攻撃することは私の本能に属する。敵であり得ること、敵であること ー それは恐らく一つの強い性質を前提とする、ともかくもそれはあらゆる強い性質を条件とする。かかる天性は抵抗を必要とする、この故にそれは抵抗を求める。進攻的激情は、復讐や怨恨の情の弱さに属するのとちょうど同じ必然さで強さに属する。攻撃者の強さの一種の尺準は、彼の必要とする対抗の中にある。あらゆる成長はより強大なる敵対者 ー もしくは問題を探究することの中に示される。何となれば戦闘的な哲人は、問題を引き出して来てまでも決闘をするからである。なすべき任務は一般に抵抗を征服するというのでなく、彼の力量や、自在や又練達した武芸の全体を打込むべき抵抗ー 対等の敵対者を征服するにある・・・敵との対等は ー 正々堂々たる決闘の第一条件だ。軽蔑している場合には戦をすることはできない。命令する場合、何ものかを自分の下に見る場合、戦はなされるべきでない。
フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」

2017/11/08

After my clan totally destructed, my husband died, and everyone ridiculed me in the world, I realized the path of immortality.

 「婦女の身であることは、苦しみである。」と、丈夫をも御する御者 ( ブッダ ) はお説きになりました。( 他の婦人と ) 夫をともにすることもまた、苦しみである。また、ひとたび、子を産んだ人々も (そのとおりで ) あります。
  か弱い身で、みずから首をはねた者もあり、毒を仰いだ者もいます。死児が胎内にあれば、両者 ( 母子 ) ともに滅びます。
 わたしは、分娩の時が近づいたので、歩いて行く途中で、わたしの夫が路上に死んでいるのを見つけました。わたしは、子どもを産んだので、わが家に達することができませんでした。
 貧苦なる女 ( わたし ) にとっては二人の子どもは死に、夫もまた路上に死に、母も父も兄弟も同じ火葬の薪で焼かれました。
 一族が滅びた憐れな女よ。そなたは限り無い苦しみを受けた。さらに、幾千 ( の苦しみの )生涯にわたって、そなたは涙を流した。
 さらにまた、わたしは、それを墓場のなかで見ました。ー 子どもの肉が食われているのを。わたしは、一族が滅び、夫が死んで、世のあらゆる人々に嘲笑されながら、不死 ( の道 ) を体得しました。
  わたしは、八つの実践法よりなる尊い道、不死に至る( 道 ) を実修しました。わたしは、安らぎを現にさとって、真理の鏡を見ました。
 すでに、わたしは、( 煩悩 ) の矢を折り、重い荷をおろし、なすべきことをなしおえましたと、キサー・ゴータミー長老尼は、心がすっかり解脱して、この詩句を唱えた。
「尼僧の告白 ー テーリーガーター ー」

2017/11/07

They performed ceremony ritual to the dead, but if it had nothing to do with the dead, they would have never ceremonied.

  だがまた私は近頃こんなことを言い出した人達にも賛成ができない。その人々は肉体と一緒に精神も滅びるもので、死によってあらゆるものが無に帰するのだという。が私に対しては古代の人々の信念の方が一層重要である。たとえば我々の祖先にしてもみな死者に対してもあのように敬虔な儀礼を尽くしているが、もしそのようなことが少しも死者と関わりがないと考えていたならば、全然しなかったであろう。あるいはまた往昔この土地に住んでいて、今でこそ滅びてしまったが当時は栄えていた大ギリシアを種々な法制や訓示でもって教導した人々にせよ、またアポルロの神宣によって最も賢い者と定められた人物にせよ、皆然りである。彼は大概の人のように時に応じてあれこれと説くことをせず、いつも変わらずに持論として、人間の心というものは神に属するものであって、肉体を出離すれば即ち天上に登り帰還ことが許されている。そしてその心が優れて正しくあればあるほど、その帰途も容易であると説いたのである。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「友情について」


2017/11/06

The Providence is to have fairness in mind, to step on the best path, to elect wise people, to raise the people to who carry the job, or to operate politics.

   廟堂に立ちて大政を為すは天道を行ふものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を選挙し、能く其職に任ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。夫れゆゑ真に賢人と認る以上は、直ちに我が職を譲る程ならでは叶はぬものぞ。故に何程国家に勲労有る共、其職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。官は其人を選びて之を授け、功有る者には、俸禄を以て賞し、之を愛し置くものぞと申さるるに付、然らば尚書、仲虺乃作誥に「徳懋んなるは官を懋にし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相配し、功と賞と相対するは此の義にて候ひしやと請問せしに、翁欣然として、其通りぞと申されき。
西郷隆盛「西郷南洲遺訓」

2017/11/05

The millitary profession is not to kill the enemy, but to be killed by the enemy in effect and essentially.

 軍人の職業は、事実上及び本質上、人を殺すのではなく、人に殺されることにある。これに対して世間は、自分自身の真の積りはよく意識せずに、軍人を尊敬しているのである。凶漢の商売は人殺しであるが、世人は決して凶漢を商人以上に尊敬したことはなかったのである。軍人は自己の生命を国家に捧げていればこそ、世人は彼らを尊敬するのである。なるほど軍人は向こう見ずかもしれない、ー 享楽を好み冒険を好むかもしれない、ー また軍職を特に選択したのも実はあらゆる種類の副次的な動機や賎劣な衝動からであったかもしれない。したがってこれ等のものがその職業における彼れの日々の行動を( どう見ても見た所だけでは )左右しているかも知れない。しかし吾々の軍人に対する評価の根底には次の究極の事実 ー それは吾々が信じて疑わない所の事実 ー が厳存しているのである。もし彼れを要塞の破れた一角に置くならば、彼れの背後には浮世のあらゆる快楽があり、彼らの面前にはただ死と本分とのみあっても、彼れは断じて後を顧みないという事実である。実に彼れは何時何時自己の選択すべき生死の両頭が面前に置かれるかもしれないと常に覚悟している。ー 否、あらかじめ自己の死の役を引き受けたのである、ー 事実時々刻々そうした役を引き受けている、ー 否、実に「日々に死」んでいるのである。

ジョン・ラスキン (栄誉の基礎)「この後の者にも 」(経済の第一原理について )」

2017/11/03

The mental state of madness is an association of ideass in mental confusion or a strange logic in sticking obsession.ions.

 常識のあべこべには名称があるであろうか。疑いもなく、狂気の或る形態の中に、人はその急性のものかもしくは慢性のものに出くわす。それは多方面から固着観念に似ている。しかし、狂気一般も固着観念も決して我々を笑わすことはないであろう。なぜならそれは病気だからだ。それは我々の憐憫の情を起こさせる。笑いは我々の知っているように情緒とは相容れない。もし笑いを誘う狂気があるとしたなら、それは精神の一般的健康と両立しうる狂気、健全なる狂気とでも言えるものでしかありえないであろう。
 ところで、どの点からも狂気にそっくりの精神の健全な或る状態があって、そこに我々が見出すのは、精神錯乱における同様の観念連合であり、あるいは固着観念における同様な奇異な論理である。それは夢の状態である。そこで、我々の分析が不正確であるのか、でなければそれは次のような定理のうちに定式化されるものでなければならぬのだ。こうだ、滑稽的不条理は夢の中の不条理と同じ性質のものである。
アンリ・ベルグソン ( 性格のおかしみ )「笑い」

2017/11/02

While officials take taxes, who want to take more, citizens give out taxes, who want to send out lesser by humanity.

 およそ国の患うべきは、国民の心の一致せざるより甚だしきはなし、書経の秦誓に紂有臣億万惟奥万心、朕有臣三千惟一心とあるのは、実に殷周の興亡する所以なり。印度は人口二億を有し、東洋第二の大国なりしも、国民の心の一致せざるよりして、竟に英国の侵掠を受け分裂滅亡の惨禍に罹れり。およそ何れの国にても、官吏は租税を取るの職にして、国民は租税を出すの職なり、取る者はその多からんことを欲し、出す者はその少なからんことを欲するは人情なり、これ官民の一和せざる所以なり。また国民が宗旨の同じからざる、学問の信ずる所の同じからざる、政治上の意見の同じからざる保守改進等は、何れも民心の一和を妨ぐる者なり。しかるに今道徳の学会を開き、同志の者は官民を論ぜず、宗旨の異同を問わず、政治の意見の如何に関せず、盡く合して会友となり、道を論じ教を説き、公道の従いて私見を去り、愛国心を先にして、一身の利害を後にし、胸筋を開きて互に相結ぶときは、国民の一和を固うするの方法是より善きは無かるべし。
西村 茂樹「日本道徳論」

2017/11/01

If you avoid your fears, you are certainly inflated with your prides, and if you neglect yourself by honor, you will instead lose yourself.

 人は、その畏るべきを見ざれば、必ずこれ慢易する。一たび慢易の心を啓かせば、又何を以てか能くこれを治めんや。故に、君子は必ずこれに臨む荘を以てす。その衣冠を正しくし、その羨視を尊くし、邪気を出して、ここに狡猾に遠ざかるは、その荘を為す所以の方なり。今の士大夫には往々、挙措狡猾にして、以て自ら喜ぶ者あり、その意は、蓋しおもえらく、かくの如くにならざれば、以て人情に通じて人を服せしめ難しと。ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自らその道の在るあり。今、その道を以てせずして、この醜態を露はさば、吾れ恐らくは、その人を服せしめんと欲する者、まさに以て、慢易を導くに足ることを。
 人の已を誉むるも、已において何か加えん。もし誉によりて自らを怠らば、則ち反って損せん。人の已を謗るも、已において何かを損せん。もし謗によりて自らを強めば、則ち反って益せん。
佐久間 象山「省諐録」

Even though formally equivalent functions shall be different as elements, they must be considered as defining the same groups.

 もし集合を命題函数と同じものであるとみなすならば、完全な理論に近づくことができる。すべての集合はそれの要素に対して真となり、それ以外のものに対して偽となるような一つの命題関数で定義される。しかし集合がある一つの命題関数で定義されるならば、それはまたその函数が真であるとき真で、偽であるとき偽となるような他の命題函数でも定義される。従って集合をそのような命題函数の中の特別な一つと ー他のものをさしおいてー 同一視することはできない。そして一つの命題函数が与えられたとき、それが真であるとき真となり、偽であるとき偽となるような命題函数はたくさんある。そのように二つの命題函数を互いに形式的に等価であるという。二つの命題が共に真であるかともに偽であるとき、その二つ命題は等価であるといい、二つの命題函数がすべての値に対して常に等価であるとき、この二つを形式的に等価であるという。与えられた函数に形式的に等価な他の函数があるということは、集合と命題函数とを同一視することのできない理由である。二つの違った集合が全く同じ要素を持つということは望ましくないことであるから、形式的に等価な函数は函数として違っていても、同じ集合を定義するものと考えなければならないからである。

バートランド・ラッセル (第17章 集合)「数理哲学説」

2017/10/30

During social increaces of wealths and populations, if there are no effects caused by sufficient or insufficient wages, general profits must fall anywhere.

 賃金の騰落は社会のすべての状態に共通であって、それが静止、進歩、後退のいずれかの状態にあるかを問わぬ。静止状態においてはそれは全く人口の増減に依って左右される。進歩状態においては、資本と人口の何れがより早く増大するかに依存する。後退状態においては、人口と資本の何れがより早く減少するかに依存する。
 経験の示す如く資本と人口とは交互に先導し、その結果賃金はは充分であったりするのであるから、賃金の関する限りにおいては、利潤については何等積極的に述べるを得ない。
 しかしもっぱら富と人口の増大しつつある社会においては、賃金の充分、不充分によって起る影響を措いて問わないならば、農業の諸改良や、穀物がより低廉な価格で輸入れさることがない限り、何処においても一般利潤は下落しなければならぬことは極めて充分に証明し得るところであろうと余は思うのである。
デビット・リカード「農業保護政策批判 ー 地代論 ー」

2017/10/29

Reasons were regarded as objective inevitability or subjective necessity from knowledge with cunstoms.

理性はこの概念に関して徹頭徹尾おのれ自身をあざむいて居る、理性が之を自分の子と思うのは誤りである、何故なら、この概念は所詮想像力の私生児に他ならぬからである、想像力は経験によって受胎して、或る表象を連想律の下に置き、それから生ずる主観的必然性すなわち習慣を以て知見から生じる客観的必然性と見なすのである、と。之によって彼は更に推論した ー 理性はかかる結合を唯だ一般的にさえ思惟するする能力をもっていない、なぜというに然る場合には理性の概念は単なる仮想であるだろうから。そして理性が先天的に成立する認識と自称するものはすべて虚偽の烙印を押された普通の経験に他ならぬであろうと、かくの如きはまさしく形而上学は決して存在しない、また存在することはできぬ、と主張するのである。

イマニュエル・カント (デイヴィット・ヒューム)「プロレゴーメナ」

2017/10/28

The army who has killed multitudes of men should weep for them with the bitterest grief, and the victor in battle has his place according to those rites.

安民章第三

賢を尚ざれば、民をして争はざらしむ。得難き貨を貴ばざれば、民をして盗まざらしむ。欲すべきを見ざれば、心をして乱れざらしむ。是の以に聖人の治むるや、その心を虚しくしてその腹を実し、その骨を強くしてその志を弱からしめ、常に民をして無知無欲ならしむ。夫の知者をして敢て為さざらしむれば、即ち治まらざるなし。

易性章第八

上善は水の若し。水は善く万物を利するも争わず、衆人の悪むところに処る。故に道に幾きなり。居には地を善とし、心には淵なるを善とし、与ふるには仁なるを善とし、言には信あるを善とし、政には収まるを善とし、事には能あるを善とし、動くには時は能あるを善とし、動くには時を善とす。夫れ唯争わず、故に尤なきなり。


檢欲章誤植第十二
五色は人の目を盲ならしめ、五音は人の耳を聾ならしめ、五味は人の口を爽よしめ、馳騁田猟は人心をして発狂はしめ、得難き貨は人の行を妨げしむ。是の以に聖人は腹のためにして目のためにせず、故に彼を去りて此を取る。

偃武章三十一
夫れた佳兵は不詳の器にして物或は之を悪む、故に有道者は処らず。君子居れば則ち左を貴ぶも兵を用いるときは則ち右を貴ぶ。兵は不詳の器にして君子の器にあらず、已むを得ずして之を用いるときは、恬惔を上しとなして勝つも美しとはせず。而之を美しとすれば是れ人を殺すことを楽しむなり、夫れ人を殺すことを楽しむものは則ち志を天下に得べからず。故に吉事には左を上び凶事には右を上ぶ。是の以に偏将軍は左に居り、上将軍は右に居る。殺人の衆きときは悲哀みて泣き、戦勝つときは喪礼を以て之に処る。
老子


2017/10/27

We may not be happy by science, but if we lose our science, we will be even more unhappy.

 吾らにして道徳上の真理を恐るべからざるものならば、同様に科学的真理をも恐れてはならぬ。特に注意すべきはこれが真に道徳と矛盾することはあり得ないということである。道徳と科学とはそれぞれ特有の領域を有し、互に接触はするけれども相侵すことは無い。道徳は吾らに努力の目的を教え、科学はその与えられたる目的に到達する手段を知らしめる。かく両者を異にするが故に相対することはあり得ない。科学的道徳の存在し得ざると同様に、道徳に反する科学は存在し得ざるものである。

 人の科学を恐るるは、主として科学が吾人に幸福を与え得ざるによる。あきらかに科学は吾らに幸福を与えることはできぬ。吾らは科学を有せざる獣類が人間よりも苦痛を感ずること少なからざるかと疑う。併しながら人間ははたして獣類と同じく自己の死すべきを知らざるによりて不死的なるこの地上の楽園を追慕する事ができるだろうか。すでに禁断の果実を味った以上、人は苦痛のためにその味を忘れることなく、かえって常に回想希求する。人は科学によって幸福を得ないかも知れぬけれども、しかも今日科学を失えば現在よりもさらに不幸となるであろう。

アンリ・ポアンカレ「科学の価値」

2017/10/26

In order to possess and believe the truth, there is no choice but to repeat individual conclusions at any time.

 真理を、別のもっと単純なものに引き直せることの可能性にこそ、たとえその引き続いた結論の系列が、そんなに長く人工的なものと見えようとも、つぎのことのたしかな証拠があると認めるのである。すなわち真理を所有すること、または真理を信ずることはどんなときにも内的直観によって直接に与えられるものではなくて、いつでも個々の結論を、程度の差はあるにしても、一つ残さず繰り返す以外には手がないということである。このことを、一つ一つ追求して行くのに困難な思考活動を迅速に遂行する理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいだろう。この読書という理由で、完全に熟練した読書家が読書に当って処理することと比較してもよいでしょう。この読書というものも、いつでも多少の差はあれ一歩一歩を残らず繰り返すことであって、初学者はことを骨の折れる一字一字の判読によって遂行しなければならないが、熟練した読書家にとってはその骨折りのごく少しの部分で、従って精神を労することも努力することもはなはだ少なくて、しかもただしい真の言葉をの意味を捉えることができる。
リヒャルト・デーデキント「数についてー連続性と数の本質ー」

2017/10/25

Patriotism must be the greatest danger and more frightening than natural disasters, plagues or famines to intensify the venomous patriotism.

 疑いもなく、言うところの愛国心は、文明が現在さらされている最大の危険であり、なんであれ愛国心の毒々しさを増大するものは、天災、疫病、飢饉よりも恐るべきものである。現在、若者たちの忠誠心は、一方では親に、他方では国家にというふうに、二分されている。万一、若者の忠誠心が国家にのみにささげられるようになれば、世界は現在よりも一段と残忍なものになる、と危惧するべき理由は十分にある。したがって、国際主義の問題が未解決のままであるかぎりは、子供の教育と世話を国家が分担する量が増えることには、その明白な利益を上回る由々しい危険がある、と私は考えている。
 もしも、国家が国際主義的であるなら、国家が父親の肩代わりをすることは文明にとって利益であるが、国家が国家主義的で軍事的であるかぎりは、戦争が文明なあたえる機器が増大することになる、ということである。家族は、急速に衰退しつつあるが、国際主義の成長は遅々としている。だから、事態は、大いに憂慮されてしかるべきである。それでも、望みがないわけではない。将来は、国際主義が、いままでよりも急速に成長するかもしれないからだ。われわれに未来を予測することができないのは、あるいは幸運なことかもしれない。だから、われわれは、未来が現在よりもよくなることを期待する権利はないにせよ、希望する権利はあるのである。

バートランド・ラッセル「ラッセル結婚論」

2017/10/24

The samurais who took over the power were not a superiority of army forces, but dominated their soil and wealth like their native farmers.

 江戸時代になると、同じ血をわけた一族同胞の中でも、専門の武士となった人々はあっさりと土と縁を切って城下町に住む都会人となり、村に居残って専門の農業となった人々を「土百姓」とさげすみ、ただ年貢をとりたてたるほかに用のない者と思うようになったのでした。侍と百姓とがまるで別々の世界に住む、別々の人種のようになっていたことは、この村の草分けの時代と面白い対照をしているように思われます。
 武士が政権を握ったのは単なる武力の優越によるのではなく、土着の農家として土を支配し、土から生ずるいっさいの富を支配してたから、つまり土に根をはった強い経済力の上に立っていたからでした。それが単なる都会の消費者となり、生産には無関係、無関心となり、しかも生活程度は高まり、農村から取り立てた物を費やすばかり。したがって農村を衰微させるとともに、他方では商業の発達によってその方に生血を吸い取られて痩せ細る一方でしたから、結局大黒柱には白蟻のついていた同様の武士の政権が、黒船のひと揺すりから、あっけなく傾き出したのも不思議ではありませんでした。
山村 菊栄「わが住む村」

2017/10/23

The power to accumulate indefinitely of money gave us the force to rule us against the greed to foreign objects.

    理性活動に何よりも内面的な優秀が必要な如く、国家においてもこれが肝要である。外物は共同生活においてすら、唯活動のための手段としてのみ価値を有する、それはかくして定められたる制限を越えてはならぬ。しかし多数者の際限なく富を重ね積もうとする渇求が、その中に困難なる障害を持って来る。こんなものの中に真の幸福を見出そうとする妄想は、金銭が入り来ったため恐ろしく増大してきた。金銭の際限なく蓄積せられ得るという事は、外物に対する貧欲にいやが上にも我らを支配する力を与えた。かくて国家的社会もまたそれに対して強く戦わねばならない。国家が自らに対して、活動の発展に要するよりも以上に、外的手段を得んと努むべきではないと同じく、国家はまた市民の利得の念に程よき自然な制限をおき、そして特に金銭の支配に対して力を用いるを要する。すなわち確かなまた明らかに認め得られる生活標的によって外物に厳に限界を与えることと、社会の幸福と個人のその一致ということである。

ルードルフ・オイケン (アリストテレス) 「七大哲人」

2017/10/17

Every nature shall separate from one another and dislike to enter the voids into the middle space.

 あらゆる物体は、互いに分離してその中間に見かけの空所のはいりこむことを、嫌悪する傾向を持っている。いいかえれば自然はこの見かけの空所を恐れている。あらゆる物体が有するかかる恐れ、もしくは嫌悪は。見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう甚だしいというようなことはない。いいかえれば、その中間の場所の大小の如何にかかわらず、一様の強さで、これを避けようとする。この恐れの強さには、しかし、限度がある。それは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに相当する強さである。この見かけの空所に接している物体は、そこを満たそうとする傾向を有する。空所を満たそうとするこの傾向は、見かけの空所が小さいときよりも大きいときに、一そう強いというようなことはない。この傾向の強さには、おのずから限度がある。そしてそれは、一定の高さすなわちおおむね31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さに、つねに相当する強さである。31ピエの高さの水が下方に流れようとする強さよりも、ほんの少しでも強さが増せば、この増しただけの強さで以て、いかに大きな見かけの空所をも生じさせるのに十分である。いいかえれば、この見かけの空所に対して自然がいだいている恐れのほかに、物体の分離や疎隔を防げるものが何も存在しないならば、増しただけの強さで、物体を分離させ、いかに大きな空間わも生じることができる。

フレーズ・パスカル (真空に関する新実験)「科学論文集」

2017/10/15

When the great people rose rapidly, they received their unusual character of cowardice, persistence, lethargy or lack of main power.

 君はおそらく、非常に本質的な相違があらわれることに気がつくでしょう。ドイツでは、小市民は、失敗に帰した革命の、中断され押し戻された発展の結実であり、三十年戦争及びそれにつづく時代ーちょうど他のほとんどすべての大国民が急速に上昇した時代ーによって、臆病、固執、無気力、及びあらゆる主動力の欠如という独自の、異常に作りあげられた性格を受けとったのです。この性格は、歴史的運動が再びドイツをおそったときにも、ドイツ小市民のものとしてとどまりました。この性格は、ドイツの他のすべての社会階級にも、多かれ少なかれ一般的なドイツの典型として自己を押しつけるに十分なほど協力でした。そして遂に、わが労働階級がやっとこの狭いかこいを突き破ったのでした。ドイツ労働者階級がやっとこの狭いかこいを突き破ったのでした。ドイツ労働者は、ドイツの小市民的固執をすっかり振り払ったという点でまさに、最もひどく「祖国をもたない」のです。
 小市民文学について(1890年6月5日、フリードリヒ・エンゲルス)
「マルクス・エンゲルス文学論」

2017/10/12

Since the victory, the leaders have tried to dominate the spiritual life and force them under the church.

 教会がコンスタンティンの時勝利を博して以来、その指導者達は、一般的精神生活を支配しすべてを教会とその精神との配下に置こうと、努めた。すでに久しい以前から着手されていた基督教とローマ帝国ならびに古代文化との融合事業は、驚くべき速度を以って完成された。今や初めて、基督教と古代哲学との結合が成立した。有利な条件の下に再び、西欧と東洋、ローマとギリシャ間の活発な交通が可能となった。ラテンの教会は、東西両教会教会分裂の直前にあたり、ギリシャ的学問の資本を供給された。人々はあたかも、目前に迫れる運命を、野蛮人侵入の暗夜を、予感していたかのようであった。教会の強固な建築は大急ぎで仕上げられた。ギリシア哲学の中で役立つと思われるものは教理学の中に取り入れられ、他はすべて危険思想もしくは異端的教へとして退けられ、次いで漸次克服された。人々はローマ帝国の勝れた組織法から借りて来て、教会組織に関する制度を補った。教会法はローマ法に範をとった。礼拝規則は改良され、詳細に規定された。古代の異教的密儀教中荘重にして注目に値するものは、既に久しき以前から模倣されていたが、今更に一層荘厳な調子、卓越した思想と儀式的形式との不思議な一致が、こうして成立した。
フォン・ハルナック「アウグスティヌスの懺悔録」

While a representative should not decide as a lawyer, they also must carry out an obligation to judge a views without a prejudice.

 道なき道に立つ者にとって最大の危機と誘惑とは、自己の說明の仕方に問題はないということを余りにも大きく確信することである。その說明の仕方そのものは正しいが、その者にとってそれが適合しない場合に用いられているかもしれない。ともかく、応急の說明を工夫して、これによって見かけは巧みに自身を救い出すことに成功することはできる。しかし代表者は弁護士として出てはいけない。自己の見解をも偏見なき裁判官として判決をする義務がある。事実という岸壁にぶつかるときは、無理を通すべきではない。、後ろへ戻って他所に出口を求むべきである。自己の認識まは他人の正当な異論に強いられて、自分の好きになった解釈を求めようと決心した者は、火の試練に堪えたのである。後になってから、自分の途上の障害と見えたものは、実は自分を新しい小径へ連れて行き、この小径は自分を先に導きもし、自分に広い見透しを与えてくれたものであるということが、ますます明らかになるであろう。
カールレ・クローン (結語)「民俗学方法論」

2017/10/09

We will be moving into the vision where we can not do anything consciously.

 我々は眠りに落ち入ると薄暗い古代の影の棲家に入る。覚醒時のあの外界からは何の直接光線も照らしてくれぬ。我々は、我々自身の自覚的な意欲なしに、その部屋々をあちこちと連れて行かれる。我々はそのカビの生えた朽ち果てた階段を転がり落ち、神秘に満ちた奥深い所から来る不思議な音や香りに付きまとわれる。我々は自分達が意識的にはどうにもできない幻の中を動いているのだ。我々は再び日常生活の世界に浮かび上がって来ると、一瞬陽の光が、我々が後に閉める戸の閉ざされぬうちに、薄暗い家の中にちらっと射すように思われる。そこで我々は今まで中をさま迷っていた部屋々を、まざまざと垣間見るのだ。そしてごくわずかながら、今までその所で送っていた生活についての多少の断片的の記憶がよみがえってくるのである。
ハヴロック・エリス (緒論) 「夢の世界」

2017/10/08

Only your consciousness will easily protect you from desires and tricks of the others.

 人間が人間に贈りうるもののうちで最も心おきない贈物は、人間が心情の奥底で自分自身に語ったものをおいて他にない。それはあらゆる神秘のうちの最も神秘なものを、自由な本質を洞察するあの広い無垢な眼を与えてくれるからである。また、これ以上に信頼のおける贈物は他にない。その訳は、親しい友人を純粋に直感することから生じるあの歓びが生涯を通じて君に付きまとい、また内的な真理が君の愛をしっかり捉えて、君をしばしば進んで省察へと立ち帰らせるようにするからである。更に、これほど容易に君を他人の嗜欲や奸計から防護するものも他にはない。そこには不当なものを誘い寄せたり、劣悪な目的に濫用されたりしそうな誘惑的な附属物はないからである。

フリードリヒ・シュライエルマッハー (献辞)「独白録」

2017/10/05

It is very unfair to immediately control ancient faith from the standard of modern thought.

 古代の信仰に対し、直ちに近代の思想の立場よりこれを律するは不公の甚しき者也。当時においては有する自然の力は、神聖なりと思惟されき。就中創造生殖の力は、その最高位を占める者なりき。光熱をもて土地を受胎せしむる太陽を崇拝するも、動物界における一般生殖の源たる男女の生殖器を崇拝するも皆なこれ生々の力を崇拝するのに外ならず、かくして吾人は有ゆる古代の彫刻において、男女の生殖器が、自然のままにもしくば表号的に描写せらるるを見ん。しかしてこれらの描写の方法もまた文明の進むに従って、ますます習俗的になり、技巧的となり、諸種の改良修補を加へ、すなわち幼稚の世界においては、創世記にいわゆる『裸体にして恥ざりき』者、長じるに及んで、あるいは人間の形を着け、さらに宗教的表号をもってこれを飾る。しかもその者は服装のために変化せざるが如く、縦令妙なる表号をもっておおうも、その思想観念は依然として同一なるを知らざる可らず。

幸徳 秋水「基督教抹殺論」

明治天皇の暗殺計画の冤罪で1911年1月24日に大逆事件の死刑となった。

2017/10/04

Every obligation must contain the concept of compulsion by rules.

  あらゆる義務は法則による強制の概念を含んでいる。とりわけ倫理的義務は内的立法のみが可能であるような強制を、これに反して法的義務は外的立法もまた可能であるような強制を含んでいる。それ故両者が強制の概念を含んでいる、それが自己強制であろうと、他社による強制であろうと。かく前者の道徳的能力は徳とよばれ、かかる心情(法則に対する尊敬)から発する行為は徳行為(倫理的)と呼ばれ得る、たといその法則が法の義務を告げるにしても、何となれば人間の権利を神聖に保つように命ずるのは特論であるから。        併し徳を行うということは、それがためにまだ直ちに本来の徳の義務なのではない。前者は単に格率の形式にのみかかわることができるのに、後者は格率の実質に、すなわち同時に義務として考えられるところの目的にかかわるのである。ー ところが目的 ー これは数多く存在し得るが ー に対する倫理的責任は広い責任であり、ー 蓋し倫理的責任はその場合単に行為の格率に対する法則のみを含むから ー そして目的は執意の実質(対象)であるから、合法的目的の相異るにつれて相異る諸々の義務が存在するのであり、これらの義務が徳の義務と名づけられる、まさしくかく名づけられるわけはこれらの義務は単に自由な自己強制に属していて、他人の強制には属しておらず、同時に義務であるところの目的を規定するからである。

エマニュエル・カント (特論への緒論) 「道徳哲学」

2017/10/02

The duties of the commoners were only worked and subject to obedience , but they had wholly no doubts.

  謀叛に対する警戒として、平民は帯刀を禁止せられていた。平民の行動を監視するために、たくさんの目付が置かれていて、少しでも不満の様子があれば厳罰に処せられた。沈黙の恐怖が平民につきまとっていた。というのは凡ての壁に耳が生えているように思われたから。彼等の務めは只働いて服従することがあって、疑いを抱いてはならなかった。如何に富裕で諸芸に通じていても、平民と生まれたものは平民に終わらなければならなかった。峻厳な慣例と掟に囲まれていたので、平民の勢力は、その捌口を浮薄の生活かさもなければ世をはかなむ宗教に求めねばならなかった。宗教は、比較的真面目な平民にとっては印度の熱心な帰依者の間に明かに現れている彼の仏の御慈悲を専らにしようとして、阿彌陀佛の大慈大悲を頼むにあったというということに何の不思議があろう。比較的薄志弱行の輩が、馬鹿げ行いを理想化して已を忘れようとつとめたことを、咎め立てすることが出来ようか。
岡倉 覚三「日本の目覚め」

2017/10/01

The "right" of the majority should be the right of the stronger and should not have any moral grounds.

  もとより、時として個人の生活を『社会のために』犠牲にするに躊躇するものではない。けれども、ここで熟考せねばならぬ。このとこは、実に唯だ諸他の個人が彼等の生存を全うし得んがためにのみなされるのであろうか。集団の単なる生存が個人の単なる生存を左右し得る如き道徳的権利は、果して存在するであろうか。もとより自然においては、多数者が少数者を犠牲にして自己を保存しはする。然しもっぱら多数者の『権利』なるものは、強者の権利であって何等の道徳的根拠を有するものではない。逆に我々の道徳的希望が、集団の生存を一個人もしくは少数者の生存のために犠牲に供せられる場合に問題となるところのものは、単なる生存ではなくて生存するものの価値である。個人といえども独立的価値を有し得るのであるから、我々は決して個人を、如何ばかり多数にもせよ諸他の個人の単なる生存のために犠牲にするべきでなかろう。
ヴィルヘルム・ヴィンデルバント『道徳の原理に就て』

2017/09/30

As people blieved that they were been immortal and lived forever, they was willing to die dead by theirelf rather pleased.


 これらの気の毒な人々は、自分達がそのまま不死であって、永遠に生きるものであるということを語りあっていて、従って彼等は死を軽んじ彼等のうち多くの者はむしろ喜んで自ら死に赴くものさえあるような有様であったから。そこへ彼等の最も尊敬する立法者が、彼等に向かってこういう見解を述べた。すなわち彼等が改宗するや否や、換言すればギリシアの神々を否認し、かの十字架にかけられたソフィストの礼拝を承認して、その訓えに従って生活するようになれば、それでもう彼等はすべて兄弟になったのであると。— 教え、それを彼等は誠実と信頼をもって、何の吟味も確証も経ることなしに、採り入れたのである。そこでもしその場合の事情を狡猾に利用することを心得ている熟練した詐欺師が彼等の間に入ったなら、彼はまたたくまに富者となって、これらの単純な馬鹿どもを心中秘かに嘲ることが出来たことだろう。

フリードリヒ・エンゲルス「原始基督教史」


2017/09/29

What was sought as believing in goodness would be only evil in reality.

メノン: 悪しきものが有益であると信じてそれを欲する人もあるし、害をなすと知ってそうする人もいるでしょう。
ソクラテス: いったいその場合、悪しきものが為になると信じている人々は、その悪しきものが悪しきものであるということを知っていると思えるかね ?
メノン: その点になると、そうは思えません。
ソクラテス: すると明らかに、その人たちは、悪しきものを欲しているのではないということになりはしないか。悪しきものであることを知らないのだから。むしろ、彼らが善であると思って求めていたものが、実際には悪であっただけのことではないか。したがって、それと知らずに善きものだと思っている人たちは、明らかに善きものを欲しているのだということになる。そうではないかね。

プラトン「メノン」

2017/09/28

It is death that a person could see in nature. People would perceive their living by seeing death.

 外なる自然は死の脅威をもって人に迫るのみであり、ただ待つものに水の恵みを与えるということはない。人は自然の脅威と戦いつつ、砂漠の宝玉なる草地や泉を求めて歩かねばならない。そこで草地や泉は人間の団体の間の争いとなる。すなわち人は生きるためには他の人間の脅威とも戦わねばならなぬ。ここにおいて砂漠的人間は砂漠的なる特殊の構造を持つことになる。人と世界との統一的なるかかわりがここではあくまでも対抗的・戦闘的関係として存する。人が自然において見るところのおのれは死である。死を見ることによって人は生を自覚する。すべての「生産」は人の側にあり、従って外なる自然の生産を「恵み」として持ち望むことはできぬ。草地と泉と井戸とを自然より戦い取ることによって人は家畜を繁殖させる。「埋め、殖やせ」が死に対する生の戦いである。

和辻哲郎「風土ー人間的考察ー」

2017/09/27

The bad guys could not leave the bad crimes, but the bad guys would has sadness that coud not those.

 善事をなすものは善人、悪業を離れることのできぬものは悪人である。しかしまた悪人には悪業を離れることのできぬ悲しみがあり、善人には善事を頼むということもあろう。そこに善人には自リョクの限界を知らざる限り、本願他力に帰するということがないという迂遠さがある。けれども悪人は大悲の願心をきいて直下に身心に応えるものがあるであろう。まことに深重の本願である。
 それ故に自力作善の人は、弥陀の本願の正機ではなく、他力をたのみてたてまつる悪人は、最も往生の正因を身につけしものである。

唯円「歎異抄


2017/09/24

What would be the nature of the phenomenon should not be the experience of acceptability but the thoughts or reasons..

 一連の精神状態は、啓示の出現そのものという歴史的事実を疑うか、或いは啓示の内容の信じるに足るべきや否やを疑うことによって、『啓示』の真理性を疑い始める。啓示は、何等、知の源泉ではなくして、知の源泉は経験と思惟のみだというのである。
 しかしながら、『その背後』に存在するものについて我々に知識を与え、且つまた我にとりしかじか現象するものが「本来」如何なる性状のものであるかを知らしめるものは、純粋な受容すなわち『受納性』の意味での経験ではなくて、思惟、理性であろうと考えるに至る。
 そこで人は純粋理性を地盤として、世界の由来、神、不死の霊魂について思惟し語るのである。人はいう、それはそうあらねばならぬ、それを人は観照という特別な『直感力』能力によって『観る』のである。
 ただ遺憾なのはその際観る人がそれぞれちがったものを観ていることである。なおまた遺憾なことには、このいわゆる観照なるものには、願望や希望が全く顕著に混ずることである。しかも、観照に説得力が欠けているのはいうまでもない。
ハンス・ドゥリーシュ「形而上学」

2017/09/23

As others could believe that death would follow eternityand immortality, because their grief must not be always necessary.g immortality follows.

 かれは死というものは、その後に永劫不滅が従うのであるから、嘆くにはあたらぬと考えている。実際、そこにはなにか死ぬという知覚が、たとえそれが、特に老人においてはつかのまのことであろうと、存在し得るであろう、がしかし死後には、そこにのぞましい知覚があるか、それとも全くないかである。だがこういうことは、われわれが死に無頓着にならんがため、若きときから須く熟考しておかなくてはならない。そういう熟慮反省がなくてはだれも落ち着いた心境にあることはできなぬ。なぜなら死ぬということは定まっている。しかもそれが今日という今日でないと定まっていない。であるから、死がいまにもおしよせてくるようにおじ恐れていたのでは、誰が心のなかでじっとしておられようぞ。この問題については、さほどながたらしい議論には及ばないとおもう。

 マルクス・トゥッリウス・キケロ (第20章)「老境について」

2017/09/21

When world conquerors would wins the war, they could collect annual contributions from citizens escaping their parolees within their boundaries of the territory.

 古い時代の世界征服者が、戦捷の行軍の急速のある一日、その領土の境界を一層詳しくたしかめ、貢をまぬがれている民をして貢せしめたり、或いは砂漠にあって摩下の騎兵隊の打ちかち難しい困難を知り、自分の威力の一つの制限をしらそうと欲するでもあろうように、吾々の時代の世界征服者である自然科学が、その祝宴の機会に祭し、日頃の仕事を休んで、領土の真の限界を一度はっきり画取ろうと試みることも妥当を欠いた企画ではないであろう。かくいうのは、現在自然認識の限界について二つの誤謬が広くゆきわたっていることを信じるからであり、且又私の試みようと如き考察が、一見平凡なことであるにかかわらず、以上の誤謬とは何等関わりのない人達に対しても、幾分の新しい寄与をするということもまた有り得ないことではないと思うため、なおさらこの試みを正当なものと考えるからである。

デュボア・レーモン「自然認識の限界について・宇宙の七つの謎」

2017/09/18

As the church enforced the same idea, whoever was opposed to the intention of the church was regarded as a heretic.

 民間信仰は中世をつうじてヨーロッパのどこでもおなじであったと思ったら、それは大まちがいだということである。善の力、つまりイエス・キリストの国についてはヨーロッパじゅうのものが同じ考えをいだいていた。またローマ・カトリック教会が同じ考えをいだかせるようにほねおってきた。この点については教会のきめた意向にそむくものは異端者と見なされた。けれども悪の力、つまりサタンの国については所によっていろいろとちがう意見がひろがっていた。ゲルマン語系の北方の民族はこのサタンの国についてはローマン語系の南方の民族とはまったくちがった考えをいだいていた。これは次のような事情でおこったことだ。つまりキリスト教の牧師らはそこにいあわせた古来の民族信仰の神々をまったくの妄想として否定しまわないで、じっさいに存在するものとしてみとめたのである。けれどもみとめながらもこう主張した。「これらの神々はすべて男性か女性のあくまである。イエス・キリストが勝利をえたので、これらの神々は人間を支配する力をうしなってしまって、今では肉のよろこびやわるだくみによって人間を罪にさそいこもうとしているのだ。」ギリシャの神々のすむと云われるオリンポスの山は天空にある地獄になってしまった。
ハインリッヒ・ハイネ「ドイツ古典哲学の本質」

2017/09/17

A large famine was caused by the civil war in Ukraine and a kolkhoza collective farm, and a caninbal Ukrainian couple was caught in murder charges.

ウクライナはロシア帝政との内戦と干渉から1919年にウクライナ労農臨時政府から社会主義ソビエト共和国が独立して、ソビエト連邦と軍事同盟を締結した。ウクライナの内戦と集団農農業政策するも、1921年にはヴォルガ地域は大規模で深刻な飢饉となった。大飢饉のために人食いをした残りの人肉とを保持していたウクライナ人夫婦が殺人罪で拘束された。2014年にはロシアがウクライナのクリミナ半島に侵攻により占領してクリミア危機となった。

2017/09/16

Literary studI try to clearly show physiological and animalistic on the nature of humanity.

 第一に文学は重圧の感情に表現を与えようとする。社会生活の秩序は既に古く、老い朽ち、風にも堪えぬ脆弱なものになってしまったという。パリでは新しい文学が社会主義と隣り合って、凄んでいる。この作家たちは描写する、描写しながら分析をする。彼等はこれに酔う、そして已が手でその疾病と死を摘別する。しかして事実の表現において真実に忠実であり徹底的かつ的確でなければ解決は得られない。随って第二に新しい文学、美術は自然主義であろうとする。それは現実的なものをあるがままに露わにし、分析しようとする。この文学の最も著しい傾向は、何よりも先ず人間性の本の裡に生理的なもの、むしろ獣的なもののあるのを明らかに示そうとするところにある。それは抗い難い本能であって、ただ治世のみがその道を照らし得るのである。

ヴィルヘルム・デルタイ「近代美術史 ー 近代美学の三期と現代美学の課題 ー」

2017/09/15

A animal can block other completions, feel and exercise with their own principle.

 もし動物が、他の完成を遮断し、自らのうちに存する原理によって感覚し、運動し得るもののみを意味すると仮定すれば、かかる場合には、他のそれ以上の如何なる完成が、加わり来ようとも、所詮その添加物は、動物に対して部分という関係に立ち、決して、動物の概念のうちに内含的に保持されるものという関係には立たぬであろう。すれば動物は類ではないことになる。しかるに、実際、動物は、それの形相から (ただ単なる感覚的精神であろうと、或いは同時に感覚的であり理性的である精神であろうとに論なく) 感覚と運動とが、そこから出で来り得るが如き何物かを意味する限りは、類である。ゆえに、類は、種のうちに存するところのものすべてを ー なぜなら、類は、単に質料のみを意味しないから  ー 非限定的に意味しているのである。
聖トマス・アクィナス「形而上学叙説 ー 有と本質とに就いて」

2017/09/14

At least the ranks and titles show the poor to be wothless at the eyes of ordinary people.

 外面的の幸運の事情の内にも、少なくとも人間の謬見によって、これ等の感情を起させるものがある。門閥や称号やを、人々は普通尊重する傾きがある。功績に基づかないで得た富も亦、利己的でないものからすら尊敬されることがある。これは察するに、富の観念と、これによって仕遂げることのできる大事業の計画とを結びつけるからであろう。斯かる行為を決して為ないであらうし、また富を価値づける唯一の根拠たる高貴の感情に何等理解を持たない金持の賤夫共に、此尊敬の与へられることも、折々はある。貧困の禍を大きくするものは、其貧困者に社会的の功績があった場合でも、全く帳消しにして了ふことはできないで、つまらない者とすることである。少なくとも位階とか称号とがあって此粗末な感情を欠き、其人を幾らか尊敬せしめる様な事がなければ、普通人の眼には、貧困者はつまらぬものに見えるのである。

イマヌエル・カント (一般人類に於ける崇高と美との性状について) 「美と崇高との感情性に関する観察」

2017/09/13

All wars begun for their greed and those left self complaints over others in the wars.

 人おのおの不満あり、彼は思えらく、われに富あらしめば我足らんと、しかして富彼に来りて彼なお平安を得ず、我に善良なる妻ありせば我足らんと、彼に幸福なる家族あるありて彼なお足らず、人は内部の欠乏を認めずしてこれを外部に認め、内を満たさんとせずして外に得んとす、我の敵は我なる事を知らずして、内に在する苦痛は外に漏らさんとす、汝らの中の戦闘と争競は何より来りしや、汝らの百体の中に戦う所の欲より来りしにあらずや、しかり世の始めより今に至るまですべての戦、すべての争の原因を究め見よ、皆ことごとく欲の戦争にして、自己の不満を他人の上に洩せしものなり。
内村 鑑三 (悲嘆)「求安録」

2017/09/12

The religion of "Theory of Christianity" turned into a weapon, thus spreading shivering and fear.

 わずかな意見の相違に基いて兄弟の交わりが絶たれ、多くの人は辱められ、放逐され、獄に繋がれ、または殺戮された。それは悲惨な歴史である。『基督論』が因になって、人々は彼等の宗教的教訓を恐るべき武器と変じ、かくして戦慄と恐怖とを散布せしめた。この態度は今もなお持続し、しかもなお持続し、あたかも福音には他には問題はないかのように基督論は取り扱われ、それに伴う狂熱は今日もなお止まない。かく歴史上その様な重荷を負わせ、党派を引き続かせた問題が、今なお未解決であることを誰が不思議としよう。しかも、捉はれない眼をもって福音書を観察する者にとっては、イエスの自己証明の問題は決して解けないものではない。ただしその中に理解に難く秘密なものがあれば、イエスの意味する所によりかつ問題の性質に従い、そのままにしておくべきであり、ただ象徴の形で言い表し得るのみである。『この世の現象の中には、象徴の助けなしには人間悟性の複雑せる表象の中に持ち来らせられないものがある。』
アドル・フォン・ハルナック (福音と神の御子ー基督教の問題)「基督教の本質」

2017/09/11

Compassion shouldl be a desire of despotism or a longing to fall down.

 道徳的感情も同じ種類の研究にゆだねられると思う。例えば、憐れみを考察しよう。哀れみは先ず第一に、他人の位置に思想上で我が身を老いて、その苦しみを苦しむことにある。けれども、ある人達の主張したように憐れみがそれだけのものにすぎないならば、苦しみは我々に自ずと恐れを抱かせるから、憐れみはみじめな人々を救うよりはもこれを避ける念を我々に抱かせるはずである。この恐れの感情は憐れみの起りにはあるかもしれないが、間もなく新たな一要素が、他の人々を助けてその苦しみを和げてやりたい欲求が、そこに加わってくる。
 他人の不幸が我々に抱かせる同情のうちにも、多分恐れは事実何らかの位置を占めるものとして入るであろう。しかし、それはいつも低級な形の憐れみでしかない。本当の憐れみは、苦しみを恐れるよりはむしろ苦しみを望むことにある。それはほとんど実現されるのを願うか願わないかのかすかな望みであるが、それにもかかわらず、自然が何か大きな不正を犯しでもするので自然との凶暴のあらゆる疑いを覗かねばなんらないかのように、自己にめぐってつくる望みである。つまり憐れみは、卑下の欲求であり、下ろうとするあこがれである。
アンリ・ベルグソン (第一章 心理状態の強度について)「時間と自由」

2017/09/06

The tragedies will lead all souls to be harmonious and expect them to be uplifted.

 問題の解決は、悲劇が文学の最高部門として認められているために、特に困難であるように思われる。悲劇は魂を高調に導き、また我々を高揚せしめんとするものである。ゆえに人は悲劇において、至高・至貴・至福なる姿を、またー言い得えればー最も神に適き姿を見ることを期待するかも知れぬ。しかるに悲劇が事実我々に示すところのものは、これと甚しく異なっている、ー即ちそれは専ら苦悩であり没落ーしかももますます極めて優れた人々の没落であり、また劇場、犯罪或いは狂気等である。
 しかも悲劇は、更にこの他に一見不可解な矛盾を含んでいる。喜劇においては個々の要素がいかに不合理であるにせよ、なおその全体は少なく共に一種の満足な表情を与えるけれども、悲劇にはかくの如きもの存せず、会々存するとしても極めて稀有な場合に限られている。実際、事件はおおむね極りなき葛藤の解決を告げ、顧客は悲しみに覆われた心を懐いて劇場を辞するのを常とする。
フランツ・ブレンターノ (悪)「天才・悪」

2017/09/05

A barbarous egotism that the Japanese sword trained with the Yamato soul should sharply kill outlanders at random.

 朝廷からは始終かわらずに攘夷鎖港の勅諚があるにもかかわらず、幕府においてはいつまでも因循して居て、今に朝旨を遵奉せぬというのは、すなわち絨狄是れうち荊舒是れ懲らすという格言に背いて、征夷将軍の職分を蔑如するものである。かくの如き姿では、目前洋夷のために我が神州を軽侮される次第で、万々一にもこの後もし城下の盟いをするように通商条約でも許したならば、それこそ我が国体を汚辱するものといわねばならぬ始末である。仮令和親をするにもせよ、まず一度は戦って相対の力を比較した後でなければ和親というものではない。ナニ彼に堅艦巨砲があっても、我にはいわゆる大和魂を以て鍛錬した日本刀の鋭利があるから、手当たり次第に斬って切り捲ろう、という向不見ずの野蛮な考えであって、今から見ると、まことに笑うべき話にすぎないけれども、その時は攘夷一途に思い込んだ頭脳だから、しょせんこの幕府では攘夷などは出来ぬ、そのうえも徳川の政府は滅亡するに相違ない、何故だというのに、世官世職の積幣が既に満政府を腐敗させて、つまる処、智愚賢不肖各々その地位を顛倒してしまった。
渋沢 栄一「雨夜譚」

2017/09/03

It is truly London of the constitutional country to have a uniform overlooking the Imperial family and the people up to the name of the constitutional hill..

 ピカデリー通りの片側に、芝原の傾斜地がある。それをコンスチチューション・ヒル即ち「憲法が丘」と名付けたのは、いささかに木に竹を接いだ感がある。この傾斜地の直ぐ下は大英帝国肯定の常住の御殿、バッキンガム宮になっているので、ロンドン(倫敦)人にすら解決の附かぬ問題が僕には忽ち釈然と解ってしまった。即ち英国人の人民は憲法が丘から皇室を監視しようとするので、バッキンガム宮殿に臨むこの小丘に厳しい名をつけたのである。パーリアメント(巴力門)の乗員へ行って見ると、玉座の頭の上にジョン王を威嚇して大憲章(マグナカルタ)に調印せしめた18人のバロンが、毘沙門天のような風采で、王座を睨み下して、イザといえば飛び降りて、手にする槍を突きつけそうな見幕を示している。僕はこれを見て、この王座に座る皇帝の心理状態は、少しく皇帝的心理状態を懸離れたものたらざるを得ないと思った。しかも更にロンドン(倫敦)全体を瞰下す市の北方にある一小丘にパーリアメント(巴力門)の名を下して、皇室と人民とを一様に俯瞰するものは、パーリアメント(巴力門)丘である事を示した。さすがは世界一憲法国だけあって小丘の名までコンスチチューショナルに出来ているのは関心と申す外はない。
長谷川 如是閑「ロンドン(倫敦)! ロンドン(倫敦)?」

2017/09/01

Magadha King wated to defeat the greater Vrijji, exterminate them, destroy them, and force them to ruin.

 マガダ国王アジャータサットゥ、すなわちヴィデーハ国王の女の子、は、ヴァッジ族を征服しようと欲していた。かれはこのように告げた。
「このヴァッジ族は、このように大いに反映し、このように大いに勢力があるけれども、わたしは、かれらを征服しよう。ヴァッジ族を根絶しよう。ヴァッジ族を滅ぼそう。ヴァッジ族を無理にでも破滅に陥れよう」と。
 そこでマガダ国王アジャータサットゥ、すなわちヴィデーハ国王の女の子、は、マガダの大臣であるヴァッサカーラというバラモンに告げていった。「さあ、バラモンよ、尊師のいますところへ行け。そこへ行って、尊師の両足に頭をつけて礼をせよ。そしてわがことばとして、尊師が健勝であられ、障りなく、軽快で気力があり、ご機嫌がようかどうかを問え。そうして、このように言えー尊い方よ、マガダ国王アジャータサットゥはヴァッジ族を征服しようとしています。かれはこのように申しました。ーと。そして尊師が断定せられたとおりに、よくそれをおぼえて、わたしに告げよ。けだし完全な人(如来)は虚言を語られないからである」と。
第一章 一、鷲の峰にて「ブッダ最後の旅 ー 大パリ二ッバーナ経 ー」

2017/08/31

While Other people still would be impressed a corner of darkness, the first flash of sunrise might be recognized in a corner of darkness.

 私がこの著作を書こうとする主な目的は、私が黄昏(トワイライト)の時代と呼んだ、廃朝後の満州朝廷を描くことにあった。それは1912年初のいわゆる共和国の創設の時期から、皇帝溥儀がクリスチャン将軍(馮玉祥)とその同盟者によって紫禁城を追われる1924年11月までの13年に該当する。
 トワイライトという言葉には、黄昏の光だけでなく暁の光の意味もふくまれている。この物語のなかで述べられている黄昏のほの暗い光は、夜の闇にのみこまれてしまったが、それは時の経過とともに再び、太陽の光に輝く新たな日を迎えることとなろう。
 それこそは中国人を敬愛し、尊敬するすべての人々の熱烈な希望であり、固く信じるところなのである。
 われわれの多くはすでに、他の人々がまだ暗黒だけしか認めていない点のまさにその一角に、新しい日の出の最初の閃光を認めている。しかし、以下の各章でわれわれが関わろうとしているのは、黄昏の微光であって、暁の曙光ではない。
レジナルド・フレミング・ジョンストン「紫禁城の黄昏」

2017/08/28

The sound unit of a language is an organization or system with a unique place hard to replace should exclude others.

 言語を形づくる基本たる一つ一つの音の単位は、単語のように無数にあるものではなく、或る一定の時代または時期における或る言語においては或る限られた数しかないのである。すなわち、その言語を用いる人々は、或る一定数の音単位を、それぞれ互いに違った音として言いわけ聞きわけるのであって、言語を口に発する時には、それらの中のどれかを発音するのであり、耳に響いて来た音を言語として聞く時には、それらのうちにどれかに相当するものとして聞くのである。もっとも、感動詞や擬声語の場合には、時として右の一定数以外の音を用いることがあるが、これは、特殊の場合の例外であって、普通の場合は、一定数の音単位以外は言語の音としては用いることなく、外国語を取り入れる場合でも、自国語にないものは自国語にあるものに換えてしまうのが常である。
 かように或る言語を形づくる音単位は、それぞれ一をもって他に代え難い独自の用い場所を有する一定数のものに限られ、しかも、これらは互いにしっかりと組み合って一つの組織体または体系をなし、それ以外のものを排除しているのである。
橋本 進吉 (国語音韻の変遷)「古代国語の音韻に就いて他二編」

2017/08/26

The character of modern periods were confused by the segregated disciplines of each developping world.

 まず近代という一時代の性格を説明することから始めなければならない。そしてそれは混乱であると言える。しかしこの混乱は、凡てのものにその秩序を論理的に追求して発達してきたヨオロッパの文明が、それが遂に一つの秩序をなすに至るものであるかないかとは関係なしに追及を続けたために陥った混乱であって、秩序を求める意志は初めから少しも変わらず、ただそうして開拓した個々の世界が各自の方向に従って分離するばかりであることが分かったからであるから、その時に起こった状態は決定的なものだった。それが解ったのが、近代だった。そしてこういうヨオロッパ的な好奇心に限界はなくて、それが何にでも向けられた成果を得たのであって見れば、近代になって、そこには秩序の他は凡てのものがあった。秩序、あるいはそれまであったはずの神はなかったとも言える。
吉田 健一「英国の近代文学」

2017/08/25

When fiction can be a political slave, it becomes a political propaganda and can not criticize politics.

 文学は独立するようになったのでありますが、その後また道徳、政治とからみあって、ずっと変遷して来ております。もし文学というものが、何かとからみあわなくてはならない、極端に言えば、何かの奴隷にならなければならぬものならば、これは政治の奴隷になるよりも、道徳の奴隷になった方がよいと思います。なぜかと申しますと、政治の奴隷になりますと、文学は政治の奴隷になりますと、文学は政治の宣伝機関になるだけであって、政治を批判することはできません。しかし、道徳の奴隷になりますと、道徳の立場から政治を批判することができます。政治の善い悪いに拘らず、文学がただ政治の宣伝機関になってしますますと、世の中よりも一層の進歩ということは、望まれません。ところが、文学が道徳に隷属しますと、ほかの立場から、即ち道徳の立場から、政治を批判することができますから、こうなれば、社会の進歩に貢献する所が多くなりましょう。
欺波 六郎「中国文学における孤独感」

2017/08/24

Your first army should be desire, the second army should be disgust, the third army should be starvation, and the fourth army was said to be delusion.

 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第呂久の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
 誤って得られた名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。
 ナムチよ、これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻撃陣である。勇者でなければ、かれに打ち勝つことができない。勇者は打ち勝って楽しみを得る。
 このわたしがムンジャ草を取り去るだろうか? 敵に降参してしまうだろうか? この場合、命はどうでもよい。わたしは、敗れて生きながえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
 或る修行者たち・バラモンどもは、この汝の軍隊のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
スッタニパータ「ブッダのことば」

Do not suppose that Jesus Christ have come to bring peace to the earth. he did not come to bring peace, but a sword. (Matthew 10: 34)

 イエスが、自分の使命は平和をもたらすことではなく、剣をもたらすことであるというとき、またイエスが、自分のもたらす激動について、もっとも神聖な地上のえにしは絶ち切らねばならないし、ひとびとは十字架を負うてイエスに従い、自分の生命を無視しなければならない (マタイ 10章 34-42節)ことについて語るとき、そのとき、イエスは終末期の時の迫害のことを考えているのである。神の国を強いよせるものは、大いなる迫害をも招くのである。なぜなら王国とメシアとは、まさにこの大いなる迫害から生まれるからである。
 このゆえにこそ、いたるところのメシアの調和のうちにきわだった和音が認められるのである! イエスは幸いの教えを、憎まれ、責められ、イエスのためにさまざまの悪しきことをいわれるとき、そのひとびとは幸いであると結んでいる。そのときひとびとはまさしく喜びと歓呼の理由をもっているのである。なぜなら、かれらが耐えしのばねばならないそのことのなかに、かれらが神の国に属していることが啓示されるからである。かれらがなおこの世の権力によって苦難を受けているとき、天上ではすでにむくいが準備されているのである (マタイ 5章 11-12節)。
アルベルト・シュヴァイツアー「イエスの生涯 ー メシアと受難の秘密 ー」

2017/08/20

You are running away from wars already and had better not see wars beyond your own hands.

 想像力のはたらきはすごいものだ。君はもう戦う前から逃げている。自分の手の及ばないところは見ない方がいい。仕事のとほうもなさと人間の弱さを考えたなら、人は何もできない。したがって、まず行動し、自分のゆることだけを考えるべきた。あの石工を見たまえ。彼は落ち着いてハンドルをまわしている。大きな石はほんのわずか動くだけだ。それでもやがて家は出来上がるし、子どもたちが階段でとびまわっているようになる。ある時ぼくは、厚さ15cmもある鋼の壁に穴をあけようとしている独りの職人が、そこに座って曲がり柄錐を扱っているところを見て感心した。口笛を吹きなから錐をまわしているのだ。鋼鉄のこまかいくずが雪のように舞っていた。この男の図太さにぼくはまいっていた。
エミール=オーギスト・シャルティ (アラン)「幸福論 (第1部)」

2017/08/17

In any age, the public's belief and ignorance were the cause of the great civil war.

 軍人。ー 諸君の軍隊はエクスに終結して何をしようというのですか? それでは絶望的ですよ。塹壕にこもっている者は敗れるということは、戦術上の公理です。経験も理論もこの点では一致しています。エクスの城壁は最も出来の悪い原野の防禦陣地にも劣るでしょう。・・・マルセーユの方よ、私の言葉を信じ給え、諸君を反革命に導く少数の不逞の輩のくびきを脱し、諸君の法律で決められた権威をふたたび打ち建て、憲法を受け容れ、代表者たちを自由の身に返してやり給え。そして代表者たちがパリへおも赴いて諸君のためにとりなさんことを。諸君は惑わされているのです、民衆が少数の謀叛人や陰謀家から惑わされるのは今日にはじまったことではない。いつの時代にも、大衆の人のよさと無知とが大ていの内乱の原因であったのです。
オクターヴ・オリブ編「ナポレオン言行録」

2017/08/15

All purposes and success merely demonstrated that the stronger would rule the weaker and engraved the significance of the former powers on the latter.

 古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見るために作られ、手は掴むために作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰するために発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有するものを支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの標証にすぎない。従ってある「事物」、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、その諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し後退するだけである。してみればある事物、ある慣習、ある器官の「発展」とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力の負担とて達せられる《進歩》では更ない。
フリードリヒ・ニーチェ「道徳の系譜」

2017/08/14

The reward of honor and glory that virtue desires have fought us many times over their own lives.

   労苦と危険の報酬として美徳が求めるのは、他ならぬこの名誉と栄光という報酬だけだからである。
 もしも名誉と栄光の報酬が取り去られたら、こんなにも取るに足りない、こんなにも短い人生において、われわれがこれほどの労苦に勤しむ意義が何かあるであろうか。言うまでもなく、もし心が後世のことを念頭に置かず、一生が終わるのと同じ時間の枠ですべての思考も終わるのであれば、そんなにも多くの労苦で身を苛んだり、そんなにも多くの心配や寝ずの努力で苦しんだり、自分の命をかけてそれほど何度も戦ったりするようなことがあるであろうか。ところが、優れた人々の心にはみな美徳が宿っており、夜昼となく栄光へと心を駆り立てている、そしてわれわれの名前は命とともに終わるのではなく、後の世までいつまでも残るのだということを訓告してくれるのだ。
マルクス・トゥッリウス・キケロ「キケロー弁論集」


2017/08/11

As long as affirming the war and allowing the existence of the army, the peoples enlisted as soldiers have not been admitted worth as much as human rights.

将校下士馬兵卒という言葉は、戦争と軍隊とを肯定する限り、全く正しい哲学で、非民主的でも、野蛮でもない。恥ずべき点はないのである。兵隊は葉書一枚の令状で直ちに補充が出来るという意味で、日露戦争ころ下士などが兵隊に向かい、「貴様らは一銭五厘だぞ」(葉書は一銭五厘であったから)とどなり散らしたことがあったというのも、右と同じ理論によるのである。私はこう說明して、同僚の一年志願兵に話したことがあった。
 しかし右の私の說明は、これを裏返せば反軍的にもなる。戦争を肯定し、軍隊の存在を許す限り、兵卒すなわち一般民衆は、人権どころか、馬ほどの価値も認められていないぞと、それは教えるものだからである。私は太平洋戦争中、『中部日本新聞』から執筆を依頼された際、実はその含みで「将校下士馬兵卒」と題する短い論文を書いてやったことがあるが、それはさすがに大本営報道部から「不許可」という大きな判を押されて返された。またそれには赤インキで「軍として不可の意見」とも記してあった。検閲を受けずに、新聞に掲載してくれればよかったと思うが、しかし新聞社では私の論文を見て危険を感じたのであろう。報道部に事前検閲を求めて、不許可となったのである。
石橋 湛山「湛山回想」

2017/08/09

Peoples appeal immediately to stoning and weapons for their terriory , but allow others to enter in their own lives.

 かつて光り輝いた天才のすべては、この一つの主題について意見を同じくしている。にもかかわらず彼らでも、このような人の心の闇には、どんなに驚いても驚き足りないであろう。どんな人でも自分の地所をとられて黙っている者はいないし、また領地の境界について、たとえ小さなもめ事が生じても直ちに投石や武器に訴える。だが、自己の生活のなかに他人が進入することは許している。いや、それどころか、今に自分の生活を乗っ取るような者でさえも引き入れる。自分の銭を分けてやりたがる者は見当たらないが、生活となると誰も彼もが、なんと多くの人々に分け与えていることか。財産を守ることがけちであっても、時間を投げ捨てる段になると貪欲であることが唯一の美徳である場合なのに、たちまちにして、最大の浪費家と変わる。

ルキウス・アンナエウス・セネカ「人生の短さについて」

2017/08/06

If people do not have knowledge, they will not be able to govern the country, while they are revolting the country without rules, as everyone is ignorance and unleared.teracy.

   天下は太平ならざるも、生の一身は太平無事なり。かねて愚論申し上げ候通り、人に知識なければもとより国を治ること能わず。甚しきに至りては国を乱したるにも規則なし。皆無知文盲の致す所なり。今人の知識を育てんとするには、学校を設けて人を教えるに若くものなし。依て小生義は当春より新銭座に屋敷を調え、小学校を開き、日夜生徒ともに勉強致し居り候。この塾小なりといえども、開成所を除くときは江戸第一等なり。然ればすなわち日本第一等乎。校の大小美徳をもって論じれば、あえて人に誇るべきにあらざれども、小はすなわち小にして規則正しく、普請の粗末なるはすなわち粗末にして掃除行き届けり。僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず。これを総称して一社中となづけ、僕は社頭の職掌相努勤め、読書は勿論、眠食の世話、塵芥の始末まで周旋、その会社の社中にも各々その職分あり。

福沢諭吉「福沢諭吉の手紙」

2017/08/05

What kind of pleasures should be there in this world by looking at bleached white bones like pigeon colors thrown away in various directions?

 諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか? ー 世間はこのように燃え立っているのに。汝らは暗黒に陥っていて、照明を求めようとしない。あちこちの方角に投げ捨てられまち散らされたこの鳩色のような白い骨を見ては、この世に何の快があろうか? 夜の最初のあいだ母胎に入って住みつく人は、安らかにとどまること無く、迷いのうちに遷っていくー去って、もはや還って来ない。朝には多くの人々を見かけるが、夕べには或る人々のすがたが見られない。夕べには多くの人々を見かけるが、朝には或る人々のすがたが見られない。
 「私は若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が自分の生命をあてにしていてよいだろうか? 若い人々でも死んで行くのだ。ー男でも女でも、次から次へとー。或る者どもは母胎の仲で滅んでしまう。或る者どもは産婦の家で死んでしまう。また或る者どもは這いまわっているうちに、或る者どもは駆け廻っているうちに死んでしまう。老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も、順次に去って行く。ー熟した果実が枝から落ちていくように。熟した果実がいつも落ちるおそれがあるように、生れた人はいつでも死ぬおそれがある。
第1章 無常 (関与のことば)「ブッダの真理のことば、関与のことば」

2017/08/04

Yahweh ruled whoever dedicated all the wombs among the children or the livestocks of Israel.

 ヤウェがモーゼに語って言われた。「すべの首子を聖めてわたしに献げよ。イスラエルの子らの中のすべての胎を開くものは人であれ、家畜であれ、わたしのものである」。
 モーゼが民に言った。「君たちがエジプトの奴隷の家から出たこの日を懊えよ、何故ならウェーは強い手をもって君たちを引き出されたのだから。種を入れたものを食べてはならない。アビブの月の今日、君たちは出る。ヤウェが君の先祖たちに与えようと誓われた乳ち蜜の流れる地に君を入れられる時、君はこの月に祝うべきである。七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。七日目はヤウェのための祭りである。七日の間種入れぬパンを食べ、すべての君の領域に種を入れたものが見られるようにせねばならない。パン種が見られないようにせねばならない。その日君は君の子に次のように言って告げなければならない。『これはわたしがエジプトから出た時にヤウェがわたしにされたことのためである。ヤウェの律法がお前の口にあるように、それがお前の手にある徴しとなり、お前の目の覚えとなるように』。何故ならヤウェが君をエジプトから引き出されたからである。それで君はこの規定を年毎に定められた時に守るべきである。ヤウェーが君と君の先祖たちに誓われたように、カナン人の地に君を入れ、それを君に与えられる時、君は胎を開くすべてのものをヤウェに奉らねばならない。
十八 首子の犠牲その他「旧約聖書 出エジプト記」

2017/08/02

All souls of human beings must absolutely be immortal.

第72章 人間の霊魂はことごとく不死であること
 しかしもし人間の霊魂が可死的であるとすれば、最高の本質を愛する霊魂が永遠に至福であることも、それを蔑む霊魂が不幸であることも、必然ではなくなるであろう。それ故に。人間の霊魂は、それを愛するために創造されたそのものを、愛するにせよ、蔑むにせよ、どうしても不死でなければならない。けれども、例えば子供の霊魂がそうであると見られるように、もし、それを愛しもしなければ蔑みもしないと判断されるような、ある理性的な霊魂も存在するとするならば、そういう霊魂についてはわれわれは如何なる見解をもつべきであろうか。そういう霊魂は可死的であろうか。疑う余地がない。だから、ある霊魂の不死であることが明白である以上、すべての人間の霊魂が不死であることも、必然でなければならない。
聖アンセルムス「モノロギオン」

2017/07/31

It is the last ultimate purpose of human beings to obey all things without reasons, to be free and to rule according to own human laws.

 すべて理性を持たないものを自分にしたがわせ、これを自由にそして自分の法則によって支配することが人間の最後の究極的目的である。この最後のの究極的目的は、人間が人間であることをやめてならず、人間が神になってならないならば全然達成されないものであるとし永遠に達成されないものであらねばならない。人間という概念にはその最後の目標は達成されず、これに至る道はかぎりないものでなければならないことが含意されているのである。そこで、この目標に達することは人間の使命ではない。しかし人間はこの目標にますます近づくことができ、また近づかねばならない。したがってこの目標にかぎりなく近づくことがかれの人間としての、つまり理性的ではあるが有限な存在者、感性的ではあるが自由な存在者としてのほんとうの使命である。ーところであの自己自身との完全な一致を最高の意味で完全性と名づけると、また名づけるのは無論さしつかへないことである。で、そうすると完全性ということは人間のきわめて到達しにくい目標ということになる。しかしかぎりなく完成していくことは彼の使命である。人間が現存しているのはみづからますます道徳的により善くなって行って、自分のまわりのあらゆるものを感性的により善くし、人間を社会の中で考察すれば、道徳的にもより善くし、こうして自分自身をますます幸福にして行くためである。
ヨハン・ゴットリーブ・フィヒテ「学者の使命 学者の本質」

2017/07/30

Science for science that have been left curiosity for is unexpectedly an irrational concept.

 トルストイから見れば「科学のための科学」とは不合理な概念であるという。「一切の事実を知りつくすことは吾々のよくするところではない。実際には無限ともいうべきほどその数が多いからである。したがってその間、選択をしなければならないのであるが、この選択に際して、吾々は好奇心のおもむくままにまかせて差支えないであろうか。むしろ実益を、いいかえれば吾々の実際的要求を、わけても吾々の道徳的要求を、標準とする方がまさりはしないであろうか。この地球上に何びきテントウムシがいるか、かようなことを計算するよりも、かようなことを計算するよりもさらに価値ある仕事がないであろうか。」というのである。
 わたしにとっては、もとをいうまでもないことであるが、この両者のうちいずれの理想も満足しがたいものである。彼の貧林愚昧な金力政治も、またひたすら右の頬を打たれて左の頬をむけることのみ没頭する彼の道徳的ではあるが凡庸な民衆政治も、ともに私の欲するところではない。後者のもとに住むものは、好奇心の欠けた聖者たちであって、かような聖者たちは極端を戒めるあまり、病に死することはないであろうが、かならず退屈に兼ねて死する相違ない。しかしながら、これは趣味の問題であって、わたしの論じようと欲求するのはこの点ではない。
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」

2017/07/29

Modern politicians do not calculate money, there might be nothing that can not be bought with money, but they should recognite on the fact that customs and citizens are exceptions.

  キュロスのペルシア王国は、ペルシアの最も小さな太守よりも、なお貧しい一君主に率いられた三万の兵によって征服されました。また、あらゆる民族の中で最もみじめなスキタイ人は、世界最強の君主達に抵抗しました。二つの有名な共和国が、世界の支配を争いました。2つの有名な共和国が、世界の支配を争いました。一つはひじょうに富み、他はなにももちませんでしたが、前者を滅ぼしたのは後者でした。世界のすべての富を併呑した後、こんどは、ローマ帝国が、富が何であるかをさえ知らない人々の餌食になりました。フランク人は、ガリア人を征服し、サクソン人はイギリスを征服しましたが、彼らは、剛勇と貧困の他には、何の財産ももっていなかったのです。数枚の羊の皮で、その欲望がみちされていた一群の貧しい岳人が、傲慢なオーストラリア人征服した後、当時ヨーロッパの専制君主たちをふるえあがらせていた裕福で恐ろしいブルゴーニュ家を粉砕しました。最後に、東西両インドの全財産に支えられていたカール五世の後継者がもっていたあらゆる権力も知力も、一握りの漁夫にぶっつかって、壊滅するにいたりました。現代の政治家たちが、金の計算をやめて、これらの実例を反省してくれれば、また、金では買えないものはないが、習俗と市民とは例外であることを一発でもわかってくれれば、ありがたいのですが。

ジャン=ジャック・ルソー「学問芸術論」