もし動物が、他の完成を遮断し、自らのうちに存する原理によって感覚し、運動し得るもののみを意味すると仮定すれば、かかる場合には、他のそれ以上の如何なる完成が、加わり来ようとも、所詮その添加物は、動物に対して部分という関係に立ち、決して、動物の概念のうちに内含的に保持されるものという関係には立たぬであろう。すれば動物は類ではないことになる。しかるに、実際、動物は、それの形相から (ただ単なる感覚的精神であろうと、或いは同時に感覚的であり理性的である精神であろうとに論なく) 感覚と運動とが、そこから出で来り得るが如き何物かを意味する限りは、類である。ゆえに、類は、種のうちに存するところのものすべてを ー なぜなら、類は、単に質料のみを意味しないから ー 非限定的に意味しているのである。
聖トマス・アクィナス「形而上学叙説 ー 有と本質とに就いて」
もし動物が、他の完成を遮断し、自らのうちに存する原理によって感覚し、運動し得るもののみを意味すると仮定すれば、かかる場合には、他のそれ以上の如何なる完成が、加わり来ようとも、所詮その添加物は、動物に対して部分という関係に立ち、決して、動物の概念のうちに内含的に保持されるものという関係には立たぬであろう。すれば動物は類ではないことになる。しかるに、実際、動物は、それの形相から (ただ単なる感覚的精神であろうと、或いは同時に感覚的であり理性的である精神であろうとに論なく) 感覚と運動とが、そこから出で来り得るが如き何物かを意味する限りは、類である。ゆえに、類は、種のうちに存するところのものすべてを ー なぜなら、類は、単に質料のみを意味しないから ー 非限定的に意味しているのである。
聖トマス・アクィナス「形而上学叙説 ー 有と本質とに就いて」