2016/07/26

長崎原爆で焼身の純女学徒

 信徒1万人の浦上教会は全滅した。軍需工場を狙ったのが、少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだそうだ。世界大戦争という人類罪悪の償いとして犠牲の祭壇に屠られ、燃やさる羔として選ばれたのではないか。長崎市の純心高等女学校の2年生の増本京子の母は、五島に帰してくれと江角校長に言う。「動員令を受けて軍属になった学徒隊員が、爆弾が怖くなって逃げて帰って、日本はどうなります」。「どうしても連れて帰りたければ退学届を出しなさい」。戦艦武蔵は三菱造船所で建造された。1945(昭和20)年4月26日に大波止港に空襲の爆弾が撃ち込まれた。5月14日定期船の長福丸は爆破され、定期航路は出なくなる。1945(昭和20)年6月20日沖縄戦で軍人10万人、市民15万人が命を奪われた。竹槍が武器となる。6月29日佐世保大空襲、8月1日長崎大空襲となる。愚かしいことに、松ヤニ(松根油)は質が悪く飛行機を飛ばすことはできなかった。アメリカ軍はサイパン島、テニアン島をB29の基地とする。原爆投下方針は、2年以上も前の事であった。隊長ポールチベット大佐の「エノラ・ゲイ号」は、広島に8月6日に原爆を投下した。次に小倉、京都、新潟を選ぶが、京都を除き、長崎となる。落下傘3個が投下され、煙の輪がドーナツのように穴があいて、いったん地上に沈んで跳ね上がって行く。きのこ雲は真夏の太陽を隠して暗くなる。1945(昭和20)年8月9日午前11時2分のことであった。
 太平洋戦争になると、日本全国140以上の都市が爆撃・破壊され、世界史上空前の惨劇となる。火たたき棒とバケツリレーで立ち向かう以外の方法を考えなかった。憲兵隊がカトリック教会の建物撤去を要求した。原爆で江角校長は鉄筋コンクリートの下で、全身しびれて動く事ができぬ。大泉修練長を屋根をこわして穴から引き出し助け出す。敵のまいたビラの文句「日本よい国、花の国、7月8月、灰の国」。それが本当になった。丸裸に近い人が多い。知り合いの人でも見分けがつかない。着ている物がはがれたり、裂けたのは、爆発のあと空気が真空のようになったからである。重い物体まで空中に舞い上がった。8月9日午前0時、ソビエト連邦が満州に侵入してきた。本土決戦は、竹槍、石をはじき飛ばす石弓ではできない。矢上アサエは黒焦の子供に走り寄って調べた。死体は炭のようで、口を両手でこじあけて、わが子の歯型を捜した。134人の生徒を確認するまで焼け跡を掘り返しても死体は見分けがつかなかった。真黒になるほど、蝿がたかり、気味が悪い蛆が這い回る。疲れ果てて学校に帰り着いて、飛び上がるほど驚かされる。広い校庭の中はことごとく死体で、厳しい死臭がその上を渦巻いている。江角校長はすぐ辞職届を書いた。「生きている限りはあの子供たちの供養をします。どこにでも墓参りに行きます。230人の亡き学徒隊は、生きながら焼け死に血を吐きながら逝きました。なすべき事はただ祈ることです」。

高木 俊明「焼身ー長崎原爆の純女学徒の殉難」