2016/07/08

滅亡前に戦争をやめる

   サイパン陥落により、東条英機はその責任者として辞職に追い込まれた。天皇の意見も考慮せよとの事であった。東条の政策を批判した逓信院工務局長の松前重義は、熊本6師団から2等兵の招集令状が出て、最も危険な前線に送られる。憎まれる原因は「戦時日本製産計画」により米国に比較して生産力が劣っていると報告したからだ。一徹の頑固者は、熊本(肥後もっこす)、薩摩(けすいぼ)、土佐(いごっそ)、伊予(ほっこまい)と呼ぶ。
 松前が44歳の時、徴兵年齢が満45才に引き上げられる。東条は自分に反対する者を軍の権力を持って召集し、死地に追いやる。通信関係の技術者は重要人物として召集免除になっていたが、松前は2等兵になり、竹塚軍曹に上靴で頬を殴られる。松前は、古い電話器で雑音が多いのを、分解しすみやかに直す。古参兵の態度はかなり変わってくる。2年9か月政権を担当した東条政府は、独裁態勢によって崩壊した。
 1944(昭和19)年8月5日夜陰に出発する。松前薬局の前で小休息する。通知があったとみえて茶菓の接待を受け、兄が薬の入った袋をくれる。兄顕義は後に日本有数の柔道家になる。重義は、熊本の学習院の優等生になり「長大」と仇名が付いた。中学卒業の時、柔道は3段の実力がある。東北帝国大学の電気工学科を受験し、280人中で合格者の2人に入る。卒業して逓信省に入る。妻の信子は、鹿児島市の医師森三木の次女である。博多に着いて、停車7分あると電話しているうちに列車は発車している。山口課長に門司まで、木炭車で送ってもらい、危うく重営倉を免れる。工兵隊に入営する時に、勲三等旭日章を首に下げてゆくと、下士官が驚く。勲三等を吊れるのは連隊長、旅団長クラスしかいない。
 若松より淡路島の輸送船で南方に赴く。「積荷は全て爆薬です。東支那海でお陀仏」と言われる。松前の田中隊のみ乗船を命じられる。東条一派の松前を海の底に葬ろうと仕組まれた死刑である。他の吉田丸と福嶺丸が沈没した。看護婦や兵士が一瞬にして消えた。高雄に入港し、浦戸丸に乗り換える。淡路丸は大爆発する。電気の修理により、松前先生となる。そばにいると彼らは気強いのであろう。マニラに上陸し、寺前南方総軍司令官に「総司令部付、ただし平服着用を許可する」という辞令を作ってもらえる。サイゴンに移動後に「陸軍兵器学校に転属を命ず。直ちに空路東京に期間すべし」飛行機の車輪の事故の故障で遅れ一命を助かる。運の強い男である。東条一派の分子も鳴りをひそめる。
 近衛は女性的で優柔不断で「近衛文子嬢」である。広田は決断力がないので「雌」である。平沼棋一郎は「朝鮮のミイラ」である。東条は裏切り和平論者を一掃すれば戦力も増強できると考える。土壇場になった憲兵出身者はこれが思考方法であった。中野正剛の国政変乱罪には逮捕の物証がない。立法権の弾圧になる相手は、国会議員である。中野は憲兵隊で造言蜚語の件を自白したと言い、家に帰り「自らを笑う」と遺書を残し、何も言わず死んだ。松前の次男紀男が疫痢になり危篤、電話連絡し鈴木医師にみてもらうと、急性肺炎で助かる。無装荷ケーブル通信の成功のおかげである。
 1933(昭和8)年、松前は逓信省からドイツ留学、ヨーロッパ視察の命令を受けた。松前と筑原は、無装荷方式で新京ー京城ー東京をケーブルで結ぶ。満州に行くと匪賊の目標となる。完成し、明瞭な通話ができる。東北帝国大学は工学博士の学位を贈ってくる。浅野賞1000円で、キリスト教のため300坪の望星学塾を作る。無装荷ケーブルの発明で。毎日新聞から「大毎通信賞」を受賞する。
 敗戦後に逓信院総裁に就任する。松前は、東海大学を設立後に、公職追放解除となり、5年後に晴れて学長・理事長になる。東京野球場を造る。1952(昭和27)年より、6回代議士に当選する。FM東海放送の電波利用の通信教育を完成される。附属高校も北海道から九州まで各地にできる。柔道の山下泰裕選手を日本選手権保持者に育て上げる。兄も脳腫瘍で76才で逝去し、講道館は得に重義に9段を贈った。東条内閣の発表する軍需製産計画は、現実から遊離した空念仏にすぎない。滅亡する前に戦争をやめるべきであった。

  豊田 穰「二等兵は死なず」