当然に問題も起こされるであろう。本性に最も深く根ざす共同性は、節度や謹慎に対してさえいつも優越するとは思われない。世の中には、賢人なら、たとえ祖国を救うためにも行うのを潔しとしないほど、一面では醜悪、他面において罪悪的なことがらがあるからである。あまりにもいまわしく見苦しいものがあって、口にもできないほど醜悪だといえる。賢人は国家のために取り上げられることはなく、国家もそれを望まない。これらの醜いことが賢人によって行われることが国家の利益である事態はありえないからである。
結局、いろいろな義務からの選択において、かの人間の社会的結合に根ざす種類の義務が優越するのは間違いがない。道徳的な義務の選択に際して、いずれを他に対して優越させるべきかは容易に判定できるからである。しかし社会的共同体自体に関してもその義務の段階があり、段階のあることを知れば、義務のいずれを他に先立てるべきかも知ることができる。例えば、第一の義務は不死の神々に、第二は祖国に、第三は祖先など段階的に義務が尽くされるに至る。
常に人間は、それが道徳的に高貴か、醜悪かにまどうだけでなく、高貴さのうちいずれはが高貴かについても迷うことがわかる。