2016/07/18

原子爆弾と毒ガスの大量惨殺

 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、B29二機が広島上空を通過、突然、ピカッと大閃光を発し、大混乱である。岡山放送局を呼び出し、その第一報は、「特殊爆弾により、広島市は全焼死者17万人の損害」と伝えた。大本営は「相当の被害」のみの発表であった。7日、トルーマン大統領の声明で原子爆弾であると報告された。もし天候が悪かったら、小倉に投下されていたかもしれない。前夜は、宇部市が長時間にわたって空襲を受けた。第二部隊には老兵が続々入隊し、9日にはソ連が満州になだれこむ。一方日本では9日の11時20分に、二つ目の原爆が長崎に落とされた。広島は一望千里の焼野原になる。地形に突出や起伏が多い長崎では、死亡7万3884人で、被害が広島より少なかった。その時の奇妙な臭いは硫黄に似ている。
 広島の警報が解除されていたその時は、ほとんどの人が外に出ていた瞬間であった。瓦礫の山になる。水が科学反応によって毒性化した。日本では被害者の科学的な調査は全然行われない。日本政府は、ソ連に和平の仲介を頼み込んだが、米英に筒抜けになっていた。原爆により、広島全市は火の海と化し、却火は炎炎と夜空を焦がし続け、3日以上燃えた。余害は1週間にも及んだ。文字通り「死の街」であり「原子砂漠」となってしまった。

 アウシュビッツで、ドイツ国家権力の最高機関によって、計画され運営された大量殺人が起こった。4年間で400万人以上の人間を毒ガス焼却炉の中で殺した。その強制収容所は、戦争の始まる前に作られていた。ドイツ軍はポーランドに侵入したが、その抵抗は3週間で終わった。英仏はまるっきり動かずポーランドを見殺しにした。ワルシャワは、ヒトラーが地上から抹殺すると宣言し。破壊し尽くした街である。100万人の人口が1万4000人まで減っていた。
 当時ヒトラーは、ワルシャワにはユダヤ人の住居は存在せずと言い放っている。ユダヤ人はことごとく強制収容所に送られた。ナチの教義は全ユダヤ人の絶滅にあった。3月の間に130万人以上の人間を粛清した。アウシュビッツは奴隷の収容所であり、ビルケナウは膨大な人間絶滅工場であった。
 貨車から追い出され親衛隊の手でより分けられ、「選抜」に漏れた者は死の行列を作ってガス・カンマーに追いやられた。地下の脱衣場で、消毒のために入浴すると言われ、裸で200人ほど部屋に入る。部屋にぎっしり押し込まれ、錠が降ろされ、毒ガス「チクロンB」のエンジンが動き出す。30分経つと汚した死体を洗い、24人の歯科医が金歯や宝石を取る。ソ連軍の急迫で、その当時のまま残る。アウシュビッツは博物館となり、殺人された人々の骨は河の中に今も沈んでいる。ヒトラーは最後まで、ユダヤ人は人間の皮を来た獣であって人間ではないと言っていた。

黒田 秀俊「広島・アウシュビッツ」