戦争状態は、敵意と破壊との状態である。それゆえ、言葉と行為によって、感情的性急にではなく冷静沈着に、他の生命を狙うと宣言すると、これによって彼はこのような企画をした相手に対して、彼は戦争状態におかれるのである。何故なら彼は自分の生命を、他人つまりこのような相手方や、あるいはその防御に立ち、その議論の肩を持つ者の力にょって奪われる危険にさらしたからである。私は自分に破壊の脅威を与えるものを破壊する権利が合理的であり、また正当である以上、それをもたざる得ない。基本的自然法によると、ひとは出来る限り生存を維持されなければならないが、もしすべての者の存続は不可能とするならば、罪なきものの安全が何よりも望ましいからである。そしてひとが自分に対して戦いをなしあるいは自分の存在に対して敵意を示した者を破壊してもいいのは、彼が狼や獅子を殺してもいいのと同じ理由によるのである。何故ならこのような人は、理性の普通法の高速の下にあるのではなく、ただ暴力の法則を知るのみであり、したがって猛獣、すなわちもし彼がその手におちれば必ず殺されるにきまっているところの危険有害な動物として取り扱われても仕方がないからである。
それ故、他の者を自己の絶対権利下におこう試みる者は、これによって自分自身を、そのものと戦争状態におくのである。けだしそれはその者の生命を狙うことの宣言と解されねばならないからである。すなわち、私の同意なしに私を権力下に置こうと欲する者は、もし私を手に入れるならば、その欲するままに私を殺すであろう、結論する理由が私にあるからである。というのは暴力によって私に私の自由権に反することを強制する、すなわち私を奴隷にしようとのではなければ、何人も私を彼の絶対権利の下におこうと欲するはずはないからである。このような力から自由であることが、私の生存を維持するための唯一の保障である。そしてそれを保障している自由を私から奪い去ろうとする者を、私の生存維持の敵とみなすことは、理性の命ずるところである。このようにして私を奴隷にしようと試みる者は、これによって自分を私と戦争状態に置くのである。自然状態において、このような状態にあるものがすべての自由を奪いさろうとするものは必然的に、その他の一切のものを奪い去ろうと試みているのだと想像しないわけにはいかない。その自由はその他の一切のものの基礎であるからである。それはちょうど社会状態において、その社会もしくは国家の人々に属する自由を奪い去ろうとする者は、またその他の一切のものを奪いさろうと企てているものと考られねばならず、したがって彼らは戦争状態にあるものと見なければならないのと同じである。