純粋な他律的倫理、すなわち権力的倫理について述べる。我々が道徳的善は、一面において自己の快楽あるいは満足というごとき人生の要求と趣とは異なり、厳粛な命令の意味をする。道徳は吾に対して絶大なる威厳あるいは勢力を有する者の命令より起こる。我々が道徳の法則に従うのは、自己の権害や得失のためではなく、単に此の絶大なる権力者の命令に従うのである。
善と悪とはこの如き権力者の命令によって定まる。すべて我々の道徳的判断の基は、教師の教訓、法律、習慣等によって養成される。かかる倫理が起こるのも無理はない。良心の命令に代えて外界の権威による。
外界の権力者と考えられる者は、もちろん我々に対して、絶大の威厳と勢力をもたなければならない。権力的倫理が歴史上に現れたのは、君主を基にとした君権的権力の倫理と、神を基にした神権的権力の倫理がある。神権的倫理は、キリスト教あるいはイスラム教が無上の勢力をもっていた中世時代に行われた。神は我々に対して無限の勢力を有するので、神意はまったく自由である。神が善または理なるがゆえに命ずるのではなく、神が命ずるものが善なるのである。極端に至ると、もし神が我々に殺害を命じたなら、殺害をも善と至る。
君主的倫理を主張したのは近代に出たホッブスである。人性は全く悪であって弱肉強食が自然の状態である。これによる人生の不幸を脱するのには、各々がすべての権力を一人の君主に託して絶対にその命令に服従する。なんでも君主の命令に従うのが善であり、背くのが悪である。その他中国では荀子がすべて先王の道に従うのが善であるのも、一種の権力的倫理である。
権力的倫理はなぜ我々は善をなすべきか説明ができず、本来は説明できないのが権力的倫理である。唯一に権威であるからこれに従うのである。人は恐怖が権威に従うための最適な動機である。我々は、何でも絶大なる勢力を有する者に接する時は、その絶大なる勢力に驚嘆する。これは恐怖や苦痛でもなく、外界の雄大なる事物にかもにされて、平服し没入する。その絶大なる勢力者が意志を持つと、その命令に尊敬の念を持って服従するようになる。尊敬の念が、権威に従う動機に至る。
我々が尊敬するのは、全く理由もない尊敬ではなく、不可能な理想を実現する可能性のために尊敬する。厳密なる権力的倫理は道徳は盲目的な服従となる。無意義の恐怖が権力的倫理が最も適当な道徳的動機と考えてとまう。人間が進歩発展するには、一日も早くその道徳の束縛を脱せなければならない。