聖パウロは、ユダヤ人をすべて罪人であると論断し、律法を行う者が初めて神の前に義とせられると述べている。この場合彼は、何人も行いによって律法を行う者となると言うているのではなく、反対にユダヤ人達に向かって「汝は姦淫するなかれと教えて自ら姦淫す」と言い、又「汝の人を審くによって、汝自ら罰するなり。汝その審くところのことを自ら行へばなり」と言っているが、「汝は外的には律法の行いに於いて立派に生活し、そしてそのような生活をしない人々を審き、又何れの人をも教えようとする。汝は人の眼にある塵を見るが、已が目にある梁木に気づかない」と言おうとしているやうである。
パウロは更に進んで、外面的には義しく見えながら秘かに罪を犯している人々へも誹謗を向ける。ユダヤ人がそれであったが、今日においてもなお、熱心もなく愛もなしに安らかに生活し、心の中では神の律法を敵視しつつしかも他の人々を審くことを好む偽善者達はすべてそれである。貪欲と増悪と高慢をあらゆる汚穢とをもって満たされるのは、すべて偽聖者の性である。正に彼等こそ、神の仁慈を軽んじ、その頑固によって神の怒りを集め積む者である。かく聖パウロは律法の正しい解明者として、何人をも罪なしには置かない。むしろ彼は、自然の性すなわち自由意志から安らかに生きようと欲する凡ての人々に対して神の怒りを告知し、ユダヤ人をして明白な罪人に何の優るところも無い者たらしめる。いや、彼はユダヤ人を頑固にして悔悛なき者であると言っている。