客観的なものに生きる。その価値が全く自己自身のうちにある物体の創造のために生きる、そうなると、生命という問題が無視されてしまう。これは否定しがたいことである。
ひたすら「わが子のために生きる」場合、生命という問題を自分で処理することを忘れて、ただ子供たちのために最善を尽くし、子供たちが立派に暮らせるようにするのと同じである。私達がある物を力の限り完全なものに作り上げると、それで、自分自身を出来るだけ完全なものに作り上げるという義務を免れたと考えることがよくある。即ち、物の問題を解くことによって、私たち自身の問題を解くのを避ける。これで、頻繁に物の問題で苦労することが不思議に帳消しになる。言ってみれば、物を手厚く扱って、私たちの主観的な生命の要求の代わりにすることによって、物の抵抗を排して進もうとする主観的生命の要求を避けるようなものである。
本当の罪過というものは、決して贖えるものではない。それは時間的に固定した或る瞬間ち形而上学的な無地感的な生命一体との間の、何としても断ち切ることの出来ない。罪は必ず神に対する罪であるのは、自分の罪を許してくれる人を求めようとする窮余の1策である。苦痛によって補うというのは、全く外的なもの、全く比較を許さぬ2つの要素を天秤にかけようとする力学的なものり、浅薄な自己欺瞞である。