「甲種合格」という言葉が大戦前にあった。徴兵検査において「身長五尺(152cm)以上で身体強豪な者」と認定された者が受ける合格証である。この言葉は国家が自分を評価してくれた栄誉ととらえ、ある者は徴兵の優先者となることで、その認定を受けることを恐れた。この言葉をめぐって大戦前の若者たちは悲喜こもごもの人生を送った。
明治時代では甲種合格者は受検者の4割を占めて、大正では3割5分、昭和では3割ほどになる。明治時代の青年たち、とくに貧しい農村の青年たちにとって甲種合格を得ることは一つのはげみだったのかもしれない。
1872(明治5)年に徴兵令が出され、それまでは軍事は士族の仕事といった考え方が一変し、陸海の兵員が全国の適齢青年から募られることになった。日清戦争当時の徴兵令によると、日本国民の満17歳から満40歳までの男子はすべて兵役に服することが義務づけられた。17歳以上の者は志願によって現役に服することができた。一般には徴兵検査に合格すると2か年の兵役が満20歳に達した時点で課せられた。徴兵合格者は貧富や学歴に関係なく召集の対象になった。
徴兵が免除される者は、罪人・官吏・公立学校生徒・洋行学生・代人料270円の上納者・家長・嗣子(あととり)・養子・徴兵在役中の兄弟であった。合法的に徴兵忌避をはかる者もすくなくなかった。夏目漱石は、大学の徴兵猶予が26歳までと規定されていたため、大学卒業の前年の猶予期限切れを控えた明治25年に北海道に移籍して一戸を創立している。社会運動家の片山潜は養子となって徴兵をのがれたという。