2016/09/06

死にて神魂と穢き亡骸

   人の死にて、神魂と亡骸との二つに別れたる上にては、亡骸は穢きものの限りとなり、さては夜見国の物に属く理なれば、その骸に触れたる火に、汚れの出で来るなり。
 また神魂は、骸と分りては、なほ清潔かる謂の有りと見えて火の穢をいみじく忌み、その祭を為すにも、汚れのありては、その享を受けざるなり。
 現に見たる、事実に試し考えもたるも、浄と不浄とその差別の灼熱を、かく汚穢をかく汚穢を忌み悪む魂の、その穢の本つ国または汚穢の行き留まる処なる、夜見に帰く由の、いかで、あらためや。
 もし黄泉に帰り居る霊魂の祭するごとに招かれて、此国土に来り享くるとなれば、然おごさかに、火の汚穢は忌み悪むべからぬ理なり。
 さるは、此国土の火、たとひいささか汚れたらしむも、彼の国の火にくらべては、何ばかりの穢れも有るまじければなり。
 また、一度も、彼国の戸喫をすれば、この国土へは来たがりたき謂は、是こそは、伊佐美命の、帰り坐しがたくおもほししにて、かしかなる例もあるを、此方に招かれ来て、祭りの饗を享くることも、また、霊異なる所為のあるもいぶしく、此はもしくは、その時々に、具かに黄泉神と相論ひて、来り享くるといわむか、然はあるまじくこそ、おぼゆれ。

平田 篤胤「霊の真柱」