2016/09/29

欲望は悪を好み善を目の敵

 スペイン人は、王が部下を小刀と綱以外戦闘用の武器も身を守る道具を携えず、全員率いてカルマルカの町に近づいて来たことを知り、町から一レグワ半離れたコノクまで出向き、彼らを迎えた。インディオが集合していた広場に通じる出入り口を四カ所占領し、その結果広場は完全に封鎖されてしまった。
 インディオは、ひとり残らず、まるで羊のように閉じ込められた。インディオは大勢いたので、身動きがとれず、また、武器も携帯していなかった。スペイン人は凄まじい勢いで広場の中央を目指して襲いかかった。彼らは、インディオたちが喚声を上げていたので、馬、県、火縄銃をくしして、さながら羊を屠殺するかのように、インディオを殺し。スペイン人に刃向かったインディオはひとりもいなかった。その場に居合わせた一万人のインディオのうち、惨殺を免れたのは二百人にも満たなかった。殺戮を終えると、スペイン人はインディア王のアタグゥルパを牢に連行し、その夜一晩中、首に鎖をかけ、裸のまま監禁した。
 しばらくすると、スペイン人が暮らせていけるよう、部下ひとりひとりに例外なく貢ぎ物を差し出させた。その一方で、先祖代々受け継いだ莫大な量の財宝をスペイン人に差し出した。スペイン人たちは受け取ってすかり満足した。
 ところが、人間の欲望は測り知れないほど深く、数年経過すると、スペイン人もすっかりその虜になってしまった。スペイン人はあらゆる悪を好み善を目の敵にする悪魔に魅入られ、どのように責め立てれば、すでに手に入れた金銀をインディオからせしめることができるかを密かに謀議を図るようになった。

テイトゥ・クシ・ユパンギ「インカの反乱ー被征服者の声」

2016/09/28

自尊心が宗教に次いで悪徳を押さえる

 このベレンサレムの国ほど貞潔な国、汚職と悪弊を免れている国はないのです。人間世界の中で、この国民の純潔な精神ほど美しく、誉むものはないからです。あなた方は結婚を無用のものとして、不倫な欲望を癒すものてして定められている。ところが卑しい欲望をもっと暗にに癒す薬が手近にあると結婚はお払い箱になります。結婚して繋がれるよりは放縦不純な独身生活を選ぶ人が多くみられ、結婚しても、年をとり青春の活力が失われてから結婚する人が多いのです。求められるのは姻戚関係とか字残金とか名声とかで、子孫を残すことは付けたりの望みです。また勢力を卑しく浪費してしまった者は、貞潔な人々のように、子供を大切にするはずはありません。こういう、放蕩が、どうしても止むを得ざることしてのみ許されるならば、結婚したら止むはずですが、果たして結婚で事態は多いに改善されますか。いや相変わらず放蕩は続き、結婚はないがしろにされます。変化を求める悪しき習性と罪が芸となるの快楽が、結婚を退屈なもの、一種の懲罰か税金のようなものにしている。
 これらの悪習を、自然にもとる情欲のような、より大きな悪徳をさけるためだと弁護されるそうですが、本末転倒の知恵である。いやそればかりでなく、そんなことをしてもほとんど何の益にもならぬ、同じ悪徳と肉欲が跳梁している。背徳の情欲は炉のようなもので、焔を全部消せばいったんは消えるが、排け口を与えればまたもえさかると言うのです。男色については、ここではいったんは消えるが、ここでせはその気配さえありませんが、それでいて。この国でみられるほど信義に厚く、破られることのない友情は、他のどの国にもありません。要するに、この国の人々ほど貞潔な国民は聞いたことがなく、彼らの口癖は、「貞潔でない人は自分を尊敬できない」で、こうも言っています。「自尊心は、宗教に次いで、あらゆる悪徳を押さえる最大の手綱である」

フランシス・ベーコン「ニュー・アトランティス」

2016/09/27

日本臣民は分子にして護る徴兵者

伊藤博文が勅令を奉じて起草した大日本帝国憲法の草案と半官的な遂上や説明書である「憲法義解」(1889(明治22)年)。

第二章 臣民権利義務
第二十条 日本臣民は法律の定むる所に従い兵役の義務を有す

日本臣民は、日本帝国成立の分子にして、共に国の生存独立及び光栄を護る物うなり。上古依頼我が臣民は事あるに当てその身家の私を犠牲にし本国を防護するを保って丈夫の事とし、忠義の精神は、栄誉の感情と共に人々祖先依頼の遺伝に根院おし、心肝に浸漸して持ってう一般の風気を結成したり。聖武天皇の詔に曰。「大伴佐伯の宿祝は常も言うごとく、天皇が朝守りつかえ奉る事顧みなき人塔にあれば、汝等の祖ども言ひ来らく、『海行かば、みづく屍、山行かば草むす屍、王のへにこそ死なめ、のどには死なじ』と言ひ来る人等ともなも聞しめす」と。この歌即ち武臣の相伝へて以て忠武の教育をなせる所なり。大実以来軍団の設あり。海内壮兵役に耐ふる者を募る。持統天皇の時毎国正丁四分の一を取れるは即ち徴兵の制の由て始まる所なり。武門執権の際に至て兵農職を分ち、兵武の事を以て一種族の専業とし、万制久しく失ひたりしに、維新の後、明治四年武士の常職を解き、五年古制に基き徴兵の令を履行し、全国男児二十歳に至る者は陸軍海軍の役に充たらしめ、平時毎年の徴員は常備軍の編成に従い、而して十七際より四十歳迄の人員はこと悉く国民軍とし、戦時に当たり臨時招集するの制としたり。此れ徴兵法の現行する所なり。本条は法律の定むる所に依り全国臣民をして兵役に服するの義務を執らしめ、類族門葉に拘らず、又一般に其の志気身体を併せて平生に教育せしめ、一国雄武の風を保持して将来に失墜せしめざることを期すなり。

伊藤 博文「憲法義解」

2016/09/26

戦争の記憶は代理経験と空想

 人間が他の動物と違うのは、自分の過去の経験を保存する点にある。過去に怒ったえことは、もう一遍、記憶の中で経験される。けれども、記憶の再生が正確なことは稀である。私たちにとって興味あるものを、興味あるゆえに記憶する。記憶というものには、危険や不安だけを除いて、戦いの興奮がすべて含まれている。それを生き返らせて楽しむのは、戦いや過去に属している意味とは別のある意味によって現在の瞬間を豊かにすることにほかならない。記憶とは、実際の経験に伴う緊張、不安、苦悩を抜きにした経験の情緒的価値のすべてを含む代理的経験である。
 戦闘の勝利は、勝利の瞬間よりも、戦勝祝賀の舞踏の時の方が痛切であるし、狩猟が意識的な、本当に人間的な経験になるのは、それを語り、その真似をする時である。人間が過去の経験を再生するのは、そのままでは空虚な現在に興味を添えるためである。記憶の本来の働きは、性格な想起というより、空想や想像の働きである。結局、大切なのは、物語であり、ドラマである。
 私たちは、普通の人間の普通の意識は、知的な研究、探求、試作の産物ではなく、さまざまな欲望の産物であるという事実を認める必要がある。私たちは、とかく自分を規準にして他人を判断し易い。合理性な非合理性というのは、知的訓練を受けていない人間性にとっては全く縁もなく重要でもないということ、人間は、思考よりも記憶によって支配されるものであること、その記憶も、実際の事実の想起ではなく、連想、暗示、ドラマティクな空想である。
 本質的な善は、恒常性と緊急とのゆえに大衆の関心事である日常利害から切り離されている。この区別を利用すると、奴隷や労働者階級は国家ー共和国ーにとって必要ではあるが、国家の構成員ではない。単に手段的と考えられるものは、機械的価値に近いわけで、本質的に価値を書くうと考えられたら最後、みな無価値になってしまう。

ジョン・デューイ「哲学の改造」

2016/09/25

他と区別する自我が自由を殺す

 考えると美醜の二元相対は、人間の分別が作為したもので本来の面目ではあるまい。丁度天候それ自身に、寒暖の二はなく、立場を異にするとある人には暑く、ある人には寒いと呼ばれるに過ぎない。だからそれは人間の作為による区別に他なるまい。本来は無記である。
 同じく美悪美醜の分別も人間の作為に過ぎぬ。故にこれに囚われるのはあたらな妄想を描いて、これに煩わすに外ならぬ。本来は清浄であるのに、強いて美醜の二つの葛藤妄想を起こすから、とにかく濁るのである。濁ればなかなか救いが来ない。故に不二に居ればおのずから救いが与えられよう。不二に居るとは、二つに囚われない身となる事である。だから知的分別を振り回す者はとかく道を謝る。作為に囚われて、道を失うからである。
 二つの世界に在る事は、不自由に在る事である。この自由を殺す最も大きな力は自我である。「他」と区別する「自」である。自我への執着は人間を奴隷にする。作為をこらせば作為に倒れる。しかし作為を意識的に殺せば、新たな行為で、循環するに過ぎぬ。分別に縛られては、人間を殺すに等しい。どうしても分別に在って分別に終わらぬ世界に出なければならぬ。
 どうしてこんな悲喜劇が起こるのか。知る事と見る事、知る事と行う事、知る事と味わう事とが一致しないのである。あるいは一致というよりも、前後しているという方がよいかも知れぬ。即ち、見て知るのではなく、知って見ようとするからである。行って知るのではなく知って行おうとするからである。味わう事で知るのではなく知れば味わえると思うからである。あの善悪の標準を見ましても、程度の差であったり、立場の差であったり、国状の別に依ったり致します。時代で国土でどんな内容を異にするのでありましょう。

柳 宗悦「新編 美の法門」

2016/09/24

帝国主義政策の併合行為

 トゥバの地域の重要性は、それが相互に抗争し合う人種、宗教、政治権力の前哨戦をなしていることにある。そこにはシベリアから追い出されて、地下資源と魚と毛皮獣に富んだこの地にやってきたロシア人の入植者がいる。偉大な過去の相続人でありながら、堕落したラマ教の腐敗敵な影響によって、とっくに骨抜きにされてしまったモンゴル人の諸族がいる。ジュンガル平原には、イスラム教の最前哨をなす人たちがいる。そこには注目すべき活力と活動を展開しているシナがある。カラザースがその研究と施策の背景にあって、繰り返し問うた問題は、かつて世界史の中で、これほど大きな役割を演じ、また再び未来を持つに違いない。秘密に満ちたこの一体において、未来はいったい誰のものかということだ。ただひとつの回答だけだ。
 未来はロシアのものだった。今日、中央アジア北部のこの地域を支配しているのはソビエトだ。新しい庇護者となったロシアは、この国でまったく自分の国のようにのびのびと振る舞った。新しいモンゴル政府、聖なるホトクトとその大臣たちは、ロシアの総督が命じた通りを実行しなければならなかった。
 トゥバがロシア領にされたやり方は、トゥバの併合が帝国主義政策の行為であり、イタリアがトリポリを、イギリスがスーダンを併合したのと異ならないのは疑いのないところだ。トゥバにおいてソビエトがやったことを見れば、このすばらしい具体例から、新ロシアの外交政策の本質がどんなものであるか、判断を得ることができるだろう。

メンヒェン・ヘルフェン「トゥバ紀行」

2016/09/23

慣習から複雑から単純の体制は認め悪い

生命は真実には何によって構成されるか、またこの自然的現象が一つの固体内に生じその存続期間を打長し得るために必要な条件は如何なるものであるか。あらゆる体制の中で最も単純なものが生命の存在に必要なる諸条件の必須のものだけを示し、それ以上に迷わすような何も示していないので、外見上かくも困難な問題に解決を与える適確な手段が見出されるのかは単純なる体制以外にはない。
 生命の存在に必須な諸条件は、複合程度の最も少ない体制に、最も単純なな限度に限られてではあるが揃って見出されるので、問題は、如何にしてこの体制が何等かのの変化原因により、より複雑な体制を生ずることができ、動物段階の全域について観察される段々とより複雑な体制を発生させ得たかを知るにあった。観察の結果到達した次の二つの考察を用いて、この問題の解決の途を見出した。
 第一に、一器官の反復使用はその発達を助成しそれを大きくすることさえあり、これに反して、一器官の使用の廃止は、それが習性的となれば、その発達を妨げそれを萎縮させ次第に小さくし、そしてこの使用の廃止が、生殖にとって相次いで生じるすべての個体によって長期間継続されると、その器官の消失を来すということを、多数の既知事実が証明している。これによって、環境条件の変化が動物のある種類の個体にその習性を変更するよう強制すると、使用度の減じた器官は少しづつ萎縮し、使用度の増した器官はますます発達し、それらの個体が習性的に行う使用の度に力と大きさを獲得される。
 第二に、流動体を含む非常に柔軟な部分におけるその流動体の運動力について、生物体内の流動体の運動が加速されるに従ってその流動体が運動の場としている細胞組織に、変化を与え、そこに通路を開き種々の脈管を形成し、ついにその流動体が見出される体制の状態に従って各種の器官を造るに到る。
 諸動物に関する我々の全般的配類は、今日までの状態では、自然が生命を有する成生物を次々に発生させるにあって遡った序次そのものとは逆な配位を表しているのであって、しばらく慣習に従って、最も複雑なものから最も単純なものに進めば、体制の構成における進歩の知識を補足することが困難となり、この進歩の諸原因、此の方彼方でその進歩を中断させている諸原因の何れわも認め悪い状態に置かれるのである。

ジャン・バティスト。ラマルク「動物哲学」

2016/09/22

人は不実に流れ、国は乱を機ざす。

  世の風俗の移り変わる事、雲の起こるが如く、水の流れるが如く、人身の老いゆくが如く、昼夜止まらざるなり。人は不実に流れ、国は乱を機さず。人情一度軽薄に流れなば、再び性善に復しがたく、国家一度乱るるれば、再び収まりがたきし。古来の歴史にも見えし如く、治は保ちがたく、乱は鎮めがたし。すでに中古南北両朝の戦より、国々兵乱打ち続き、干戈止む時なく、世上道理絶え、礼儀廃り、君臣の道を失い、上君徳に背き、下臣道を絶ち、臣として君を失はん事を計り、君または臣を失はん事を思ひ、あまつさえ主君を弑して国郡を押領し、あるいは親子兄弟拒みて領地を争い剣鎗に及び、また同列朋友互いに計りて、権威を逞しくせん事を欲し、あるいは受領口宣なくしてほしいままに国の守を名乗り、さらに官職のためのみなく、尊卑の次第を失い、人心雲水の如く、危々として薄氷を渉り、耕田荒廃し、鰥寡孤独の類のみ多くでき、神仏仏閣破壊し、奸盗殺害、常の業となり、誠に天地の道理を失ひて、二百有余年を経るといへども、なお治むること能わず。時に当たりて城郭を砕き、国郡を犯し奪へる英雄豪傑はあまたありといへども、国を治め果せる人傑もなく、稀有に治め得る主将もその徳薄く、仁政の至らざるにや、永く保つこと能わず。
 しかるにかかる御治世の結構に倦み誇りたるというべきか、実に安逸鼓腹に余りたるか、近来風俗転変し、奢侈超過し、上下その分限の程を失い、花麗日々に増し、月々に盛んになりて、人情うき立ち、根元の信義薄くなり、治世のありがたき御恩沢の程も弁えず、下賤のものまでも気象高ぶり、我儘に構え、得手勝手に身の栄耀を調ふる事のみ欲し、それに随つて内申に私欲の情募り、我より下たる者への権威をふるまひ、上たるには媚び諂い、虚言偽りて人を犯し奪う事を欲し、万事軽薄にのみ走り、表向きは穏和にして、礼儀も厚く見えて内心の実意薄く、忠孝の志もはるかに劣り、慈愛の情も薄くなり、物事すべて義理によらず、また賢愚に拘らず、とかく財利により、貧福を眼目とし、身の奢り飾りの美事なると、また見ぐるしくて、人の勝劣を沙汰する当時の振合ひなる故に、その身高くまた道を正しく守るといへども、貧しきは世に疎まれ、人に遠ざれらるるなり。その身卑しくまた愚かなるとも、財宝を貯えたるは世の上に敬し挙げられ、楽しみを貴人・高位と等しく極るなり。

武陽 隠士「世事見聞録」


2016/09/21

犠牲を軍艦に変える富国強兵

あゝ飛騨が見える厳しい冬将軍があたりを覆い尽くす頃、みねという名の製糸女工が野麦峠の長上で死んだ。
口減らしのため岡谷の製糸工場へ出かせぎに行き過酷な労働と折檻に耐え青春を過ごした。
明治政府が強引に推し進めてきた生糸を、軍艦に変える富国強兵政策を底辺で担ったのは、無数の女工たちであった。
女の生きるための哀歌であるとともに、数百の聞き書きによって浮き彫りにした素顔の日本近代史である。
無学の女性が大多数、産めよふやせよ、戦争の兵士にするために、青春時代を戦いにあけくれ敗戦となる。
人間は何のために生きているのか。
無智な親を持って我が身がいとおしいと過ぎた人生を語る。
仕事のできる人は幸せなりと、只一人泣く。

山本 茂美「あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史」

2016/09/20

感情主義は保守主義を含意

 誰もが自分の推論の能力を過大評価しているといこと自体が、この能力がいかに浅薄なものであるかを示すのに十分である。実際にうぬぼれるのはつねに、姿の美しさとか特殊な技術のうまさなど、無意味な資質の方である。魂の実質的部分をなしているのは本能であり感情である。
 感情主義は保守主義を含意する。そして保守主義はその本質からして、いかなる実践的な原理についても極端にまで推し進めることを拒否する。保守主義者が言いたいのはただ、突発的に損なわれるにまかせたり、あるいは倫理的な規範を急速に変えたりする人は、賢くない人だということである。決定的な重要性をもつ事柄は、感情に、いいかえれば本能に委ねられている。すべての力を発揮する過程で主として頼りにすることができるのは、魂の部分のなかでももっとも深く確実な部分ー本能ーの方である。
 思考における、感情における、行為における一般化、連続的体系の豊かな拡がりこそ人生の真の目的である。人間のすべての知的発展が可能になったのは、あらゆる行動に誤りの可能性があるという事実のためである。「過つは人間の性」こそ、もっとも熟知している心理である。生命の無いものはまったく誤りを犯さない。
 観念は類似性にとくに価値を認め、強調する性質をもっている。ある感覚質が鮮明な意識をもたらされるなら、直ちにいくつかの別の質の鮮明さも増加する。概念は観念ではなく精神の習慣である。一般観念が繰り返し生じ、その有用性が経験されるならば、一個の習慣が形成される。

チャールズ・サンダース・パース「連続性の哲学」

2016/09/19

戦争に生死の権利を握る首領

自分たちの身柄も財産も掠奪から守られず、目の前で土地を荒らされ、子供を奴隷に連れられ町を落とされないようにカエサルに援助を求めた。
カエサルに降伏の使節をよこすと、カエサルは人質と武器と奴隷を求めた。
勝った者が負けた者に思いのままの命令をするのは戦争の掟である。当たり前の状態をまもって年貢を納めている限り、不当な戦争はしないとおどす。
敵も最後の望みをかけて奮戦し、先頭のものが倒れば次のものは倒れたものの上にたって屍の中で戦い、これらのものも倒れると生き残ったものはさらに死体を積み重ねた。
兵士は命ぜられたとおり飛び出し、陣地を取るつもりで来たものを到る処で取り囲んで殺し、その野蛮人3万余りの3分1以上を殺し、その村の家をすべて焼き払った。
すべての若者、智略や名望のある年寄りは集り、町の護りようもなく、身柄財産をカエサルにあげて、元老をすべて殺し、残りは奴隷として売り払った。
カエサルに平和と友情を求めるのに対して、人質を差し出すように命じ、村と家とをことごとく焼き払い、穀物も刈り倒した。
ローマ軍の大軍に迫られると、塹壕の中に投げ込み、闘いながら死んだ、夜まで攻撃を支えたが、夜になると救われることを諦めて自殺した。
国境をできるだけ広く荒廃させて無人が最大の名誉である。隣が土地をおわれて去り、誰も住もうとしない、不意の侵入の恐れがなくなり、一層安全と思っている。
部族が戦争をしたり、しかれられて防いだりする場合には、戦争を指揮して生死の権利を握る首領が選ばれ、平和の時には一般の首領はおらず、裁判をして論争を沈める。

ガリウス・ユリウス・カエサル「ガリア戦記」


2016/09/18

日本軍隊は警察国家日本の産物

いかなる制度にも長短はある。そして、その制度での人間の優劣賢愚によって、制度は生きもし死にもする。党員のなかにも愚劣な人間がいて、制度の短所を一新に集めているかと思うと、実にほれぼれするような人間的な党員もいる。非党員のなかには、新しい制度に納得がゆかぬながらも、巧みに制度から利己的な甘い知るのも吸おうとする人々もいるし、今更新しい制度に希望は持てないにしても、周囲にいる人間に対する愛情を活かして、下積みの苦しい生活を静かに送っている人々もいる。
 ソヴィエト権力の触手が、蜘蛛の巣のように小さい身体の上に覆いかぶさっている。その権力に対しては、どんな真実も、釈明も役に立たないように思われるし、その権力は個々の人間の生命や、その家族の幸福などは全く無視して顧みないようにさえ思われる。
 あらゆる善意にもとづく努力にもかかわらず、その権力がおそろしく官僚主義的・秘密主義的で、暗くおそろしいものだという印象を拭い去ることができなかった。個々の囚人の切実な訴えに耳を傾ければ、罰日が不明だったり、その処罰が余りにも非人間的だったりする。それは理性を超えた闇の力ーテロリズムではないか。
 日本の軍隊であったなら、軍曹は殴打、重営倉、降等、場合によっては銃殺を以って酬いられることは明らかだ。あらゆる政治組織は、自身の姿に似せて、その軍隊を作り上げる。兵隊が完全に無権利な状態に抑圧された日本の軍隊は、まさに民衆の基本的人権が無視されたいた警察国家日本の産物であった。

 高杉 一郎「極光のかげにーシベリア俘虜記」

2016/09/17

偏狭な非情で萎縮さす野蛮な愛国主義

    愛国とは何ぞ。如何なる人士に負はしむるに愛国といへる栄名を以ってすべきや。世間似て非なるもの多し。紫の朱を奪うは、古今の通弊に非ずや。
 常に其の眼前に遮りて遠征の人を悩殺す。此れ吾が祖宗の国なり。我等の汗は、其の土壌に滴りぬ。我らの血は、その誉ある幾多の戦場に流れたり。我らの痕跡は、吾が衣装に、慣習に、言語に、終にまた文章に残りて甚だ鮮やかなり。吾人が国を愛するは、単に郷土を愛するのみに非ず。愛国の真意は、国民を愛するに在り、其の歴史を忘れ難く覚ゆるに在り、夢床の間に其の英雄と交通するに在り。
 真正の愛国は、既往に束縛せらるるものに非ず、今に居て能く過去を継承し、其の精神を拡充して、大いに新田地を開拓するを期するものなり。祖宗の偉業を弘め、粛々として、其の大成を図るは、国を愛するものの志す所なり。往を承け来に継ぐの大義を忘れ、漫に国粋の主義を唱え、鎖国的の国民論を主張するのは、抑また愛国の本義を誤れるものに非ずや。此の主義に由りて、政治を論ずるものは、実に固弊にして其の国に害すること甚だし。
 一国の民、其の自己を執りて、固く立たず、妄りに外国の風習、文物に屈従し、奴隷の如く其の模倣に奔走するのは、吾人の非難する所なり。吾人は当然なる国民主義に左袒す。偏狭なる区域に躊躇して、広く人類の同情同感を求めず、固弊な国民の視覚を萎縮せしむること甚だしき。これを名付けて、野蛮と称す。

斉藤 勇「上村正久文集」



2016/09/16

紫禁城から日本公使館に脱走皇帝

 紫禁城の内務府はありふれた、型どおりの皇帝(溥儀: 清国の最後)の従順な僕であるだけでは十分ではない。もし自分達がいなかったら、皇帝は道徳的にも、肉体的にも、精神的にも、いっそう貧しくなってしまうであろうと思うところまで奉仕に徹する必要があったのである。実際はこれとはまったく逆で、革命前はもちろんその後も、彼らは一貫して内務府とは自分達の危篤の利益を計るための機関であり、自分自身の存在を継続させる口実を見つけ出すことにあった。
 皇帝は、優待条件に関する清室側の立案者の真の目的が、皇帝や一族を保護することにはなく、世間へ出て自分の力で生計をたてることに恐怖を感じ、王室は滅亡しようとも自分たちは無傷でいたい大勢の宮廷官史と宦官たち、そしてあらゆる種類の寄生虫たちの生活を維持するためであった、という意見をもっています。
  紫禁城の財宝は1933(昭和8)年の満州事変で、日本と満州国の軍隊の北京にたいする軍事的脅威によって、中国中部のいくつかの場所に急遽疎開しなければならなくなった際に、一般の注意をひくこことなった。
 北京での差し迫った内乱についての奇怪な噂はありがたいことに外国公使館にも何の情報も入っていないようだ。1934(昭和9)年11月29日最初に日本公使館に入った。外国公司のうちでも日本は、紫禁城から脱走する皇帝を受け入れるだけでなく、十分な保護を叶えてくれるであろう唯一の公使であったからだ。その他の外国公使館は、中国の内政に干渉すると解釈し、ひどく冷淡な態度をとる。
 特別列車が爆破された張作霖の死は、従来の満州における法と秩序の崩壊のきっかけとなる。1931(昭和6)年9月18日から有名な満州事変が起こったのである。1934(昭和9)年3月1日に皇帝は日本か強権をもって作り上げた傀儡国家「満州国皇帝」となった。

 レジナルド・ジョンストン「紫禁城の黄昏」

抽象的精神から可視的的に歩む文化

 印刷された書物は中世期に大伽藍の果たした役割を引きつぎ、民衆の精神の担い手になった。しかしながら、千冊の書物は、大伽藍に集中された一つの精神を千の意見に引き裂いた。言葉は石を粉砕した。
 見える精神はかくして読まれる精神に変わり、視覚の文化に変わった。この変化が生の相貌を一般的に大きく変えてしまったことは周知の通りである。概念と言葉の下に生き埋めになつている人間を再び直接人の眼に見えるように引き出す。
 使用されない器官は退化し畸型化するというのが自然の法則である。言葉の文化にあっては、表現手段としての我々の肉体は使用されず、そのために表現能力を失い、ぶきっちょで、幼稚で、鈍重で、粗暴なものになってしまった。文化は抽象的精神から可視的肉体への道を歩むかにみえる。意識的な知が無意識的な知覚力になる。
 人間における外的なものとは何か。地位・習慣・財産・着物、これらすべてが変容させ、おおい隠している。しかし人間はとりまくものに対して反作用する。人間は変容されつつ、こんどは自己のまわりのものを変容する。自己が大きな広い世界の中におかれていることを知る人は、その中に垣や壁をめぐらせた小さな世界を作り、それを自分のイメージに従って飾る。
 印章主義は、つねに全体の代わりに部分だけを示し、補足は観客の想像に委ねる。表現主義は、環境の全体像を示す。豊かな表情をも相貌にまで様式化して、まず第一に観客の感じとるような情緒を醸し出すことを、観客の想像に委ねたりはしない。
 カメラマンは意識的な画家でなければならない。第一に、視覚的芸術として映画はまた特に目を愉しませるものでもなければならない。第二に、一定の情緒を表現するからである。カメラマンは意識的に一定の情緒を表現するからである。だからカメラマンは意識的に一定の情緒を表現すべく勤めなければならない。

ベラ・バージュ「視覚的人間ー映画のラマーベラベラ」

2016/09/14

踊らされ中国に「征伐の役」

 神道では正邪の観念は浄、不浄の観念に置き換えられる。不幸や病気、とりわけ死および人間や動物の死体との接触は不浄なものとみなされた。かくしてある種の職業にたずさわる人々は、慢性的な癒しがたい不浄を背負わされることになった。そしてこのことが、社会から排斥された身分を生むのである。ひとたび穢れた死者は、不浄なものの「払い清め」ないし「叩き出し」の助けをかりて、清められるのが普通である。神道のいたって単純な儀式的側面は、この祓いあるいは浄化作用に尽きるといってもいい。
 幕末に対する天皇の回答は、彼自身、即刻厳格な断食の行に入り、祖国が異国の襲撃を免れるべく、全国でそれ相応の献祭をとりおこなうよう命じたという主旨のものだった。またこれとは別に、火急の事態にそなえるため、天皇は特別に頌歌をものした。他方最高会議は、この件でなんらかの合意を得ることができなかった。徳川が遺した法律も含め、この際何世紀にもわたる鎖国政策をきっぱりと捨てるべきと考えるものもいた。またあるものは、諸外国との関係の開始は災難にちがいないが、さりとて抵抗することもできないと認めている。
 明治維新からの国民教育省すなわち文部省自体が、きわめて困難な立場に追い込まれてしまう。異常に膨れ上がったこれら多数の生徒全員を官費でまかなうだけでも容易でなかったのに、これに加えて国民教育予算が、海軍省、陸軍省の兵備増強による財政危機のあおりをくって、とつぜん大幅に削減されてしまったからである。なぜ陸海軍省が増強されたかというと、イギリスに踊らされて「征伐の役」を不当とし日本側に屈辱的対応をとりだした中国とのあいだに、戦争が起こるのではないかと予想されたからだ。

レフ・メーチニコフ「回想の明治維新ーロシア人革命家の手記ー」

2016/09/13

深層意識は天国にも地獄にもなる

   底の知られないように、人間の意識は不気味なものだ。それは奇怪なものたちの棲息する世界。その深みに、一体、どのようなものがひそみ隠れているのか、誰にも知らない。そこから突然どんなものが立ち現れてくるのか、誰にも予想できない。
 人間の内的深淵に棲む怪物たちは、時としてー大抵は思いかけない時にー妖しい心象を放出する。その性質によって、人間の意識は一時的に天国にもなり、地獄にもなる。だが怪物たちは、普段は表に姿を現さない。ということは、彼らの働く場所が、もともと表層意識ではないということだ。
 だから人間の、あるいは自分の、表層意識面だけ見ている人にとっては、それらの怪物は存在しないにひとしい。怪物たちの跳梁しない表層意識こそ、人は正常な心と呼ぶ。平凡な常識的人間の平凡な意識は、まさに平穏無事。もし怪物たちが自由勝手に表層意識に現れてきて、その意識面を満たし支配するに至れば、世人はこれを狂人と呼ぶ。つまりそのような表層意識の現れ方、表層意識としては、異常な事態なのである。
 そしてこのことは同時に、彼ら、内的怪物たち、の本来的な場所が、表層意識ではなくて深層意識であることを示唆する。深層意識領域という本来あるべき場所にあって、あるべき形で働く限り、どんなに醜悪妖異なものにも、それぞれの役割があって、そこにあるといことが、時には幽玄な絵画ともなり、感動的な詩歌をも生みもする。汚物を貪り食う餓鬼の類ですら、深層意識的現実の世界秩序の中では然るべき已れの位置をもっている。胎蔵界の外縁、外金剛部院を満たす地獄、餓鬼、畜生、阿修羅などの輪廻の衆生。
 こういうものたちが、その本来の場所である深層意識の観念領域を離れて、表層的意識面に出没し、日常世界をうろつき廻るようになる時、はじめてそこに人間にとって深刻な実存的、あるいは精神的問題が起こるのだ。

井筒 俊彦「意識と本質ー精神的東洋を索めて」

2016/09/12

日本は全体と英国は自由を尊重

  わたしたちイギリス人の間では家族の結束はずっと弱いといえます。自分だけ金持ちでも仕方ないのでもちろん他の人の助けはしますが、家族に対する態度を比べると日本人とわたしたちの間には大きな違いがあります。一万キロも離れていることによる違いです。ここ東洋では個人の自由は重要ではありません。日本人は国民の幸せのためには個人の権利を放棄しなくてはならないと考えます。それで個人の自由を大切にする私たち西洋人が、日本時と同じように国民の幸福を望んでいることが理解できないのです。
 現在の変化しつつある世の中では、よいものを一部の人が占領するのではなく、みんなが共有するためには自由を制限を加える必要があるというのはもっともな意見で、私たちイギリス人も賛成です。それでも私たちにとっては命ともいえる個人の自由を放棄することは拒みます。どちらを向いたも目に入る他国の重苦しい全体主義の考えより、個人の自由を尊重する私たちの考え方がいいと思います。
 過程の中の一員が、その家族にとって資質を持つことがあります。肉体的な欠陥ならともかく、思想上の欠陥の場合には、例えば、旺盛な探究心に取り付かれたというような場合には、家族の中心的な人たちは、このまま放っておくと、一族の昔からの平和が荒らされることをちょ感敵に感じ取ります。あるいは、彼の方が自由を拘束する慣習に従おうとしないかもしれません。そんな時は、大人たちが勝手に本人のためと考えて、家族全員で事の解決にあたります。いかなる行動を起こすにせよ、両者ともに伝統に従って厳かに行います。何世紀にもわたって培われてきた家族に対する愛情は、その家独特の階層を作り出し、下の者は上に従順で礼儀正しく、またお互いが、あまり自由がない組織の中でできる限りの思いやりを持つようににりました。ある個人を愛するという自然で強い感情が、日本では、家族の愛に取って替わったのです。従って、団結した家族とその外の世界との境界線はイギリスよりもはっきりしています。

キャサリン・サムソン「東京に暮らす living in Tokyo 1928-1936」

2016/09/11

コペルニクスは天の回転

 この天体の回転の書の中で、地球に運動を与えている意見を抱いている私は直ちに罰せられると言って騒ぎ出すであろうことを私はよく存じています。けれども私の意見は他人の判断を考慮していない点で満足していません。
 哲学者の仕事は神が人間の理性に許し給うた範囲にてあらゆる事物について探求するから、その思想は愚人の判断に従うべきでないですが、正義と真理に全く反する意見は避けるべきです。
 私が地球が動くことを肯定したならば、地球は不動で空の真中に中心であるという意見が何世紀もの間の判断している人々が、どんな不合理であると評価しようとするかで、私はその運動の証明のために著述を公にすべきであるか、あるいは反対に哲学の神秘は友人や身近な人だけしか、それも書物によってではなく、口だけでしか知らせない方がよいと長い間考えました。彼らはある人々が考えるように意見を伝えることを惜しんでそうしたのでは決していないと私は思います。
 そうではなくて非常に偉い人々によって熱心に研究された非常に美しい事柄が何か得にならないと学問に真面目な働きを捧げようとしない人々や、他の日と日度の例と勧めによって哲学の自由な研究に勧奨されても精神の愚鈍のために哲学者のなかにあることも恰も蜂蜜のなかの黄蜂のような人々によって軽視されるのを恐れたからだと思います。このように考えまして私の意見の新奇と不条理に対する恐れが私をして、とうに完成している著述を発表せずにおくところでした。
 しかし私の友人たちは私が長い間躊躇し、彼等に反抗さえしたのを思い返させました。彼等は既にその4倍もの私のしまってある研究を本に書いて公にすることを度々私に勧めたばかりでなく、私がそうしないでいる事を何度も非難しました。その他の優れた学識のある人々が同じように私に求め、数学にたずさわるすべての人々の利益のために私の研究を公にすることを、私の懸念のためにも拒絶しないようにと勧めました。
 地球が動くという私の理論は多くの人々に不条理に見えようとも、私の著述が出版されて不条理の雲が明瞭な説明によって消えて行けば、それは多くの称賛と感謝を喚び起こすであろうと彼等は申しました。長い間彼等が私に求めていた私の著述を出版することを友人たちに許すに至りましたのは、このような勧めとこのような希望によってであります。

ニクラウス・コペルニクス「天体の回転について」

2016/09/10

無知は権門し派閥を尊敬

  住民のあいだにひとりの統治者がいます。聖職者で「太陽」と呼ばれています。この人が、精神面でも世俗面でも全住民の指導者で、あらゆる政務が採取的にはかれによって決定されます。「力」は戦争・和平・軍略をつかさどります。軍事においては最高指導者ですが、「太陽」にまさるものではありません。「武官、戦士、兵士、軍需、築城、攻城を管轄します。「太陽」は「力」とともに、こうしたあらゆる仕事をつかさどります。無知な人たちが権門の生まれだとか強大な派閥によって推されたとかいう理由だけで、かれらを統治の適任者とみなして尊敬しているのです。
 太陽市民は、極度の貧困は人間を堕落させ、卑劣・狡猾・泥棒・詐欺・浮浪・嘘つき・は偽証になり、富もまた、傲慢・うぬぼれ・無知・裏切り・冷酷・知ったかぶりなどの原因になりますが、共和制のもとではすべての人が富者にして貧者となります。あらゆるものを所有しているがゆえに富者であり、物に仕えることに執着せず、あらゆるものを所有しているがゆえに貧者なのです。
 太陽市民は名誉のためにしか争いませんが、そんなかれらのあいだで、侮辱その他の原因から何か争いが起こったとします。怒りにかられて、つい腕力で相手を侮辱してしまったりすると、統治者「太陽」とその役人により、犯罪者としてひそかに処罰されます。くちさきだけの侮辱なら、いずれ戦争の機械を待って決着をつけます。鬱憤晴らしはただ敵だけに向けるべきだというわけです。そして戦場で武勲にまさる者のほうが、名誉の問題においても理があるとみなされ、他方が負けになります。しかし正義の問題にかんしては刑罰が存在します。ただし、決闘は許されません。自分のほうが理があることを示したいなら、国の戦争においてそれを示せというのです。

トラソ・カンパネッラ「太陽の都」

2016/09/09

後世名誉のための万民を使役

 われわれが名をこの世の中に遺したいというのでございます。この一代のわずかなの生涯を終ってそのあとは後世の人にわれわれの名を誉めたってもらいたいという考え、それはなるほどある意味からいいますると私どもにとっては持ってはならない考えであると思います。ちょうどエジプトの昔の王様が已れの名が万世に伝わるようにと思うてピラミッドを作った、すなわち世の中の人に彼は国の王であったということを知らしむるために万民の労力を使役して大きなピラミッドを作ったようなことは、実にキリスト信者としては持つべからざる考えだと思われます。
 それゆえに思想を遺すことは大事業であります。もしわれわれが事業を遺すことができぬならば、思想を遺して将来にいたってわれわれの事業をなすことができると思う。文学はわれわれがこの世に戦争をするときの道具である。今日戦争することはできないから未来において戦争しようというのが文学であります。それゆえに文学者が机の前に立ちますときには、この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平らげようとの目的をもって戦争をするのであります。事業を今日なさんとするのではない。将来未来までにわれわれの戦争を続ける考えから事業を筆と紙とにのこして、そうしてこの世を終わろうというのが文学者の持っている大志で有ります。
 それならば最大の遺産とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、そうしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは勇ましい高尚なる生涯であると思います。この世はこれは決して悪魔が支配する世の中にあにずして、神が支配する世の中であることを信じることです。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信じることである。

内村 鑑三「後世への最大遺物」

2016/09/08

全ユダヤ人を罪人

   聖パウロは、ユダヤ人をすべて罪人であると論断し、律法を行う者が初めて神の前に義とせられると述べている。この場合彼は、何人も行いによって律法を行う者となると言うているのではなく、反対にユダヤ人達に向かって「汝は姦淫するなかれと教えて自ら姦淫す」と言い、又「汝の人を審くによって、汝自ら罰するなり。汝その審くところのことを自ら行へばなり」と言っているが、「汝は外的には律法の行いに於いて立派に生活し、そしてそのような生活をしない人々を審き、又何れの人をも教えようとする。汝は人の眼にある塵を見るが、已が目にある梁木に気づかない」と言おうとしているやうである。
 パウロは更に進んで、外面的には義しく見えながら秘かに罪を犯している人々へも誹謗を向ける。ユダヤ人がそれであったが、今日においてもなお、熱心もなく愛もなしに安らかに生活し、心の中では神の律法を敵視しつつしかも他の人々を審くことを好む偽善者達はすべてそれである。貪欲と増悪と高慢をあらゆる汚穢とをもって満たされるのは、すべて偽聖者の性である。正に彼等こそ、神の仁慈を軽んじ、その頑固によって神の怒りを集め積む者である。かく聖パウロは律法の正しい解明者として、何人をも罪なしには置かない。むしろ彼は、自然の性すなわち自由意志から安らかに生きようと欲する凡ての人々に対して神の怒りを告知し、ユダヤ人をして明白な罪人に何の優るところも無い者たらしめる。いや、彼はユダヤ人を頑固にして悔悛なき者であると言っている。

マルティン・ルター「キリスト者の自由」

2016/09/07

宗教は集団により極度な危険

    諸君のうちには、宗教を単に心の疾病にすぎないように見離す者がいる。そしてかかる人々が良く懷く考えに依ると、この疾病は、個々の者が別個に襲われるだけなら、禍ではあろうが辛抱し易くもあるし、恐らくこれを制御することすらできよう。しかしこの種の不幸な患者の間にあまりにも親しい集団が成立すると、共通な危険が極度に増大し、すべてが失われてしまうと言うのである。
 前の場合には、適宜の処置、いわば炎症を抑える食養生とか新鮮な空気によって発作は弱め、例え全快はおぼつかなくともその特有の病素を無害な程度に薄めることができる。
 しかし後者の場合は、あらゆる治療の希望を放棄しなければなるまい。即ちもしも他の患者にあまりにも、接近して、禍が個々の患者の治療のもとで助長激化されれば、この禍は一層破壊的なものとなり、極めて危険な徴候を伴って来る。かくして少数の者によって全体の空気が忽ち毒され、極めて健康な身体すらこれに感染し、生命の過程が経過する通路はすべて破壊され、体液は悉く分解し、一様に熱病的精神錯乱に陥り、時代も国民も、こぞって回復困難となろう。
 かくして諸君が教会及び宗教の伝達を目的とするあらゆる施設に対して抱く嫌悪は、宗教自体に対する嫌悪よりも一層烈しく、ことに教職者は、かかる施設を支持し且つ特にこれを運営する一員として、諸君にとっては人類中最も悪むべき者である。
 だが諸君の中で宗教に関して寛容な見解を有ち、宗教は心の錯乱と言うよりもむしろその特別な現れ、危険な現象と言うよりはむしろ無意味な現象だと考える考える人々も、やはりすべての団体的制度に対しては全然同一な有害だと言う見解を抱いている。彼等の見解によると、かかる制度は必然的に、独特で自由なものを奴隷のように犠牲にし、精神無き機械、空虚な習慣と言う結果を伴う。而もこれは無に等しいか、然らざれば誰にでも等しく充分成し遂げれ得る事物から、信じられない程の結果を以って大成功を収める者がやる人為的な業績だと言うのである。そこでももし私が、諸君をこれに対する正しい見地に立てようとする努力を惜しならば、私が重大だと思うこの問題について諸君に心を披露しても、それは極めて不十分なものに過ぎないであろう。

フリードリヒ・シュライマッヘル「宗教論」


2016/09/06

死にて神魂と穢き亡骸

   人の死にて、神魂と亡骸との二つに別れたる上にては、亡骸は穢きものの限りとなり、さては夜見国の物に属く理なれば、その骸に触れたる火に、汚れの出で来るなり。
 また神魂は、骸と分りては、なほ清潔かる謂の有りと見えて火の穢をいみじく忌み、その祭を為すにも、汚れのありては、その享を受けざるなり。
 現に見たる、事実に試し考えもたるも、浄と不浄とその差別の灼熱を、かく汚穢をかく汚穢を忌み悪む魂の、その穢の本つ国または汚穢の行き留まる処なる、夜見に帰く由の、いかで、あらためや。
 もし黄泉に帰り居る霊魂の祭するごとに招かれて、此国土に来り享くるとなれば、然おごさかに、火の汚穢は忌み悪むべからぬ理なり。
 さるは、此国土の火、たとひいささか汚れたらしむも、彼の国の火にくらべては、何ばかりの穢れも有るまじければなり。
 また、一度も、彼国の戸喫をすれば、この国土へは来たがりたき謂は、是こそは、伊佐美命の、帰り坐しがたくおもほししにて、かしかなる例もあるを、此方に招かれ来て、祭りの饗を享くることも、また、霊異なる所為のあるもいぶしく、此はもしくは、その時々に、具かに黄泉神と相論ひて、来り享くるといわむか、然はあるまじくこそ、おぼゆれ。

平田 篤胤「霊の真柱」

2016/09/05

非国民の愛校心

  コペル君の精神的成長に託して語りかける「人生いかに行くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的とは何かをという問題を切り離すことなく問わなければならぬ。」というメッセージであった。
  上級生が中心となって、学校の気風をもっと引き上げてゆこうという運動が、おこりました。このままでゆけば学校が創立以来誇りとして来た気風が非常に乏しくなり、やがて亡びてしまうだろう。この連中しきりにこう唱えていました。
 「愛校心のない学生は、社会に出ては、愛国心のない国民になるにちがいない。だから、愛校心のない学生はいわば非国民の卵である。われわれは、こういう非国民の卵に制裁を加えねばならない」というのが、その人たちの主張でした。
 しかし、これら人々は自分たちの唱えていることが正しいと信じると同時に、自分たちの判断も一々正しいと思いこんでしまっていました。そして、自分たちの気に喰わない人間は、みんな校風にそむいた人間であり、間違った奴らだと、頭からきめてかかるのでした。だが、それよりも大きな誤りは、この人々が、他人の過ちを責めたり、それを制裁する資格が自分にあると、思いあがっていることです。同じ連中にそういう資格はないはずです。

吉野 源三郎「君たちはどう生きるか」

2016/09/04

生命の問題を無視と回避

 客観的なものに生きる。その価値が全く自己自身のうちにある物体の創造のために生きる、そうなると、生命という問題が無視されてしまう。これは否定しがたいことである。
 ひたすら「わが子のために生きる」場合、生命という問題を自分で処理することを忘れて、ただ子供たちのために最善を尽くし、子供たちが立派に暮らせるようにするのと同じである。私達がある物を力の限り完全なものに作り上げると、それで、自分自身を出来るだけ完全なものに作り上げるという義務を免れたと考えることがよくある。即ち、物の問題を解くことによって、私たち自身の問題を解くのを避ける。これで、頻繁に物の問題で苦労することが不思議に帳消しになる。言ってみれば、物を手厚く扱って、私たちの主観的な生命の要求の代わりにすることによって、物の抵抗を排して進もうとする主観的生命の要求を避けるようなものである。
 本当の罪過というものは、決して贖えるものではない。それは時間的に固定した或る瞬間ち形而上学的な無地感的な生命一体との間の、何としても断ち切ることの出来ない。罪は必ず神に対する罪であるのは、自分の罪を許してくれる人を求めようとする窮余の1策である。苦痛によって補うというのは、全く外的なもの、全く比較を許さぬ2つの要素を天秤にかけようとする力学的なものり、浅薄な自己欺瞞である。

ゲオルク・ジンメル「日々の断想」

2016/09/03

世界侵略者は軍人を略奪欲で支配

  世界侵略者(ナポレオン軍がプロイセン占領下であった1807年に刊行)は、社交的人間の心に深く根ざすか如き好意、及び戦争によって荒らされた土地の不幸を見て悲しむ人情をも、どうにかして牽制しなければならぬ。その手段は略奪欲しかない。略奪欲が軍人を支配する原動力となり、彼等が豊潤なる土地を荒廃せしむるに際しても略奪のみ考えるようになれば、この略奪は一般の不幸を惹起することによって自己を利するにほかならぬから、ここに始めて彼等の心に同情憐憫の情の起こる恐れがなくなるのである。
 従って現代の世界侵略者は、その部下を野蛮人的粗野に到るように育てあげるのみならず、また冷酷かつ組織的なる略奪欲に到るように養成せねばならぬ。即ち略奪的好意を罰せざるのみならず、反ってむしろこれを奨励しなければならぬ。また略奪を為すことに自然に伴う恥辱感をまず一掃し、略奪はかなわち高尚にして悟性に富める心の証拠と見なされ、偉大なる事業の一つに数えられ、名誉と品位を得るの道と考えられるようにしなければならぬ。
 世界侵略者のような野蛮国民は、今より後、人、土地及び財貨の略奪を速成的な到富の要決となし、ますます進んで富をつくろうとする。彼等は手当たり次第に略奪をなし、略奪される者がいかなる運命に陥るかを顧みずしてこれを捨て去る。あたかも果実を得んとしてその樹木を伐り倒すが如くである。かくの如き手段を用いる者は、誘惑、甘言、欺瞞の術を用いることができぬ。近き所より見れば、その獣性及びその破廉恥なる略奪欲は、いかに愚かなる者の眼にも明らかに映るが故に、全人類は明らさまにかかる者に対する嫌悪を示すのである。かくの如き手段を行えば、世界を略奪し、荒廃せしめ、一種の混沌境に化せしむる或いはできよう。しかしながらこれを数えて一つの世界王国たらしむことは決してできぬ。

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」

2016/09/02

貧しい農村の青年に甲種合格と徴兵忌避


「甲種合格」という言葉が大戦前にあった。徴兵検査において「身長五尺(152cm)以上で身体強豪な者」と認定された者が受ける合格証である。この言葉は国家が自分を評価してくれた栄誉ととらえ、ある者は徴兵の優先者となることで、その認定を受けることを恐れた。この言葉をめぐって大戦前の若者たちは悲喜こもごもの人生を送った。
 明治時代では甲種合格者は受検者の4割を占めて、大正では3割5分、昭和では3割ほどになる。明治時代の青年たち、とくに貧しい農村の青年たちにとって甲種合格を得ることは一つのはげみだったのかもしれない。
 1872(明治5)年に徴兵令が出され、それまでは軍事は士族の仕事といった考え方が一変し、陸海の兵員が全国の適齢青年から募られることになった。日清戦争当時の徴兵令によると、日本国民の満17歳から満40歳までの男子はすべて兵役に服することが義務づけられた。17歳以上の者は志願によって現役に服することができた。一般には徴兵検査に合格すると2か年の兵役が満20歳に達した時点で課せられた。徴兵合格者は貧富や学歴に関係なく召集の対象になった。
 徴兵が免除される者は、罪人・官吏・公立学校生徒・洋行学生・代人料270円の上納者・家長・嗣子(あととり)・養子・徴兵在役中の兄弟であった。合法的に徴兵忌避をはかる者もすくなくなかった。夏目漱石は、大学の徴兵猶予が26歳までと規定されていたため、大学卒業の前年の猶予期限切れを控えた明治25年に北海道に移籍して一戸を創立している。社会運動家の片山潜は養子となって徴兵をのがれたという。

清水勲「ビゴー日本素描集」

2016/09/01

戦争到来を歓迎する軍隊

カール 
   若い士官達はただもう戦争のことを考えて目を輝かせているよ。誰に向かってやるかはあまり問題にしないのだ。彼等は熱心に外交秘話が惹起した争いについて論じている。イギリスは本気で火蓋を切るに違いない。そしたらすぐヨーロッパの他の国々もきっと巻き込まれて戦意中の戦争になることは疑いなしと彼等はいうのだ。
フリートリヒ
 そりゃ戦争到来を心から歓迎しない軍隊なんで無いよ。目覚ましい働きをして認められ昇進しようというのだからね。僕はちっとも悪いとは思わんね。
カール
 でも今ほどどこもかしこも盛んに軍備をやっていて、しかも今ほど長く平和が続いているなんて珍しいじゃないか。
フリートリヒ
 それは当然さうでなければならないので、昔は戦争というものは、力が有り余っている場合にその有り余った力で行われるのだ。戦争をやる人間も、有り余ってさしあたり居なくても差し支えない人間、また戦いに必要な金といって余分に貯えてあった金か又は少なくとも大して工面しなくても調達できた金だった。ところが今はどうだ。国民はすばらしい軍備を整え、男子という男子をほとんど繰り出し、あらん限りの力を出して戦うのだ。最初の軍備の費用さへ中々捻出できない位だ。それこそ国家存亡の戦争であることを覚悟しなければならん。だから皆少々控えめに用心しているのも不思議ではない。

レオポルト・フォン・ランケ「政治問答」