自然は肉体をも自由人と奴隷では異なった者として、奴隷は生活に必要な仕事に適する丈夫であり、自由人は真っ直ぐで労働には役に立たないが、国民としての戦争と平和に関する仕事には有用な生活を作る意向をもっている。逆にある奴隷は自由人の肉体をもち、魂をさえもつこともある。ただ肉体に関してだけでも、神の像と人間の姿との相違と同じ程度の相違が人々にあるなら、疑いもなくすべての人は、劣れる者が優れた者に奴隷として仕えるのは当然だろう。肉体の場合に真実であるなら、精神の場合に同じ規則を適用するのは、はるかに正当なことである。自然によって人々は自由人であり、ある人々は奴隷であることが有益なことであり、正しいことは明らかである。
自然とよって奴隷、法によって奴隷、奴隷として仕えている奴隷もある。戦争中に征服された者は、征服者の者であると規定する法律が一種の約束として存在する。徳は必要な外的手段を手に入れば、力による征服を最もよくなし得る。力によって征服者にある者は善を常に非征服者よりも余計にもっている。力は徳なくして存じえないので奴隷にする事を正当化する。征服者と非征服者の相互間の好意が正当化する事になり、人々には力の優れた者の支配が無条件に正しいと思うからである。
戦争はその起こりが正しくないこともあり、奴隷に適さないものが奴隷である事を承認はしない。捕われても自分自身を奴隷と呼ばれる事を好まず、自然によっての奴隷以外のものではない。人間からは人間、動物からは動物が生まれるように、善き親からは善き子供が生まれるのが当然である意向を自然は持っている。ある者は支配され、ある者は支配する、悪しく支配することは両者に不利益をもたらす。