多くの人々が神の名に心を奪われたこと、及び神の援助を求めて筆にしがたい暴挙をあえてしたことである。注意すべきは、唯一の神のみが存在し、その他何物も存在しないこと明らかにすることである。「真理が神」であり神たる真理を見出すために、避けることができないのは暴力否定である。完全なる暴力の否定は生命あるものに対して、全然悪意を持たない事である。暴力の背後には過激なる意図をもち、独断に敵へ悪をなす希望である。
暴力否定は悪に対して現実の闘争を止めるだけでは成立しない。悪に対抗して結局これを拡大するような復讐よりも、一層積極かつ現実なる暴力否定か必要である。不道徳と戦うため、精神的すなわち道徳的抵抗をする。尖鋭なる刀剣で暴者と衝突するのではなく、相手の物的抵抗の期待を誤らせて、暴者の剣を完全に鈍らせるのである。
自己に困難を与える人々を広い心で許すべきか、あるいはこれらを打倒すべきか。結局は闘争に執着する人々は永遠の生命のある真理に向かって少しも進めない。これに反して自己に困難を与える人々を広い心で許せば、目的に近づき、指導することにも至る。試みた闘争で求める真理は外部には存在しない。反って真理は自己の内部にある。外部に求めた敵に闘争する間は、内部の敵を忘れるから、暴力に訴えるのでいよいよ真理と遠ざかるのである。
我々は盗賊に苦しめられるから、盗賊に制裁を加える。盗賊が遠ざかったとすれば、我々が他の人を襲っているからである。一方盗賊は盗みを職業であると考えるから盗難はますます増加する。結局は盗賊に制裁を加えるよりも、広い心で許すのが良いこと気づく。盗賊もまた我々と異ならない人々であり、市民でり、友人でもあり、制裁をしてはならない。盗賊を広い心で許しても、悪には忍従してはならず、卑怯に悪い状態に陥ってはならない。
欲望が生命のための肉体を創造するのは正当である。欲望がなくなれば、もはや肉体の必要はなく、生死の迷路から解放される。なんの必要があって籠にも比すべき肉体内に欲望を幽閉し、籠を愛するために悪事を働き、また殺人をもあえてするのだろうか。純粋なる真理の見地よりすれば、肉体もまた一つの独占物である。
負債を精算して重荷を下ろし、義務を果たして自己に奉仕する。自分の力を人類一般に提供するように要請される。単に善人に対してのみならず、我々全部に対する要望である。このような原則を遵守すれば、執着から離れる境地に入り、利己追求の欲望から離れることができる。これが人間と禽獣とか異なる点である。