日本人にとっては、已の民族の既成の秩序になんの摩擦もなしに順応するのは当然のことであるのみならず、その秩序のためには自己の生存をさえも泰然として犠牲にししかもそのために仰々しく騒ぎ立てられることはない。ここに初めて、仏教の及ぼした影響の成果と、同時にそれに基づくもろもろの術の持つともなしに持っている教育的な価値形成とが、明らかに現われる。この内面の光によって、死も、祖国のためにみずから進んで求める死さえも、崇高な清祓を受け、同時にあらゆる恐怖が跡形もなく消え失せる。仏教ならびにすべて真の術の鍛磨が要求する沈思とは単純に言うならば、現世および自己から訣別ができ、無に帰し、しかもそのためにかえって無限に満たされることを意味する。これが幾度も修練され、実際に経験されるならば、そして、決定的に理解された思想としてではなく、意識的に持ち出された決意としてでもなく、非有の中の現実の有として生きられるならば、これは死をも、また意識しながら死んで行くことも、沈思そのものに対するように少しも恐れないあの自若とした落着きを生み出す。じじつ、人間の生存がただ数瞬にして取り消されるものにせよ、あるいは持続するものにせよ、いずれにしてもそれは非有野中の有に移されることに変わりはない。
同時に、ここにかの武士道精神の根源がある。日本人がこの精神を已れにもっとも特有なものとするのは当然と言っていい。そのもっとも純粋な象徴は朝日の光の中に散る桜の花びらである。このように寂然として内心揺ぎもせずに生から已れを解き放つことができるというそのことにこそ、終わりが初めに流れ入る生存の、唯一ではないが究極の意義を実現し、かつ開示する。