我々が現在の事象において未来の歴史家に最も関心を起こさせるものを正しく指摘するためには、都合のいい偶然、例外的な僥倖が必要である。この歴史家が我々の現在を考察する際には、そこにその人の現在の説明、特にその人の現在が含む新しいところの説明が必要である。その新しいところは、もしもそれが創作になるはずだとすれば、それについて我々は今日数々の事実のうちから、記録すべき事実を選ぶために行うというよりも、むしろこの指示に従って現在の事象を切り抜いては様々な事実を作り出すために、その新しさに合わせればいいのか。
近世の重要な事実は民主政の到来である。その時代の人々が述べたような過去の中に民主政の先端となる徴候を我々が見出すということは疑いをいれない。しかしその時代の人々がこの方向に向かう人類の歩みを知らなかったならば、恐らく最も関心を引く指示を与えなかったであろう。ところでこの方向も他の方向もその時には気づかれずにいたというよりは、むしろまだ実在していなかったのであって、経路そのものによって、つまり民主政を漸次著想し実現した人々の前進運動によって、後から作り出されたのである。
してみると、先端となる徴候が我々の目に徴候となっているのは。我々が今その経過を知るからであり、その経過が果たされているからである。経過もその方向も、従ってその終点も、それらの事実が行われていた時には与えられてなかったのであるから、これらの事実はまだ徴候ではなかった。
アンリ・ベルグソン「哲学の方法ー思想と動くものⅢー」