不安は感性が罪性を意味しうる点ににおいて成立している。罪が一体何を意味しているかということについての漠然たる知識も一緒に作用しているのである。それにはさらに、歴史的なるものについて誤れる歴史的把握も一緒に作用しているのであり、その際、急所即ち個体的根源が捨て去られて、個体は無造作に人類ならびに人類の歴史と混同されている。我々は感性が罪性であると言うのではなしに、罪が感性を罪性たらしめると言うのである。さて我々がその後の個体のことを考えるならば、たしかにかかる個体は、そこにおいて感性が罪性を意味しうることが顕わになるところの歴史的環境をもっている。個体それ自身にとっては感性が罪性を意味してはいないにしても、かかる知識が不安を増し加えることになるのである。いまや精神はただに感性に対してのみならず、さらに罪性に対して対立的な関係に立たされることになる。無垢な個体がかかる知識を未だ理解していないことは言うまでもない、なぜならそれはそれが質的に理解せられる場合に始めて理解せられるのだからである。ところでかかる知識はまたもやひとつの新しい可能性なのであり、従って自由ーこれはおのが可能性において自らを感性的なものにたいして関係づけられるのだからーにたいして不安が増し加えられるのである。