霊魂の諸運動は、原因としていっさいの身体的運動に先立ち、思想・記憶・願望・希望・恐怖のごときがすなわち霊魂の諸運動である。自然学の対象たるいっさいの運動すなわち直動・回転・収縮・膨張およびその他の運動は霊魂の諸運動に依存する。在来の哲学者たちによってなされた大なる誤謬はかかる自然的運動をそれ以上説明を要しないものと考えたことである。この点において彼らは自然の背後には意図も理性も存在しないと主張する妄説に道をひらいた。さて霊魂は善悪そのいずれかである。善なる霊魂は、まさにその善に比例して、秩序ある定まれる運動、すなわち天体の運動はきわめて一定で秩序がある。その帰結として、いっさいの霊魂のうち最高なるものは完全に善なる霊魂でなければならない。しかし、無秩序なる運動も存するがゆえに、これが唯一の霊魂ではありえない、すくなくともひとつよりおおく霊魂がなければこの秩序の錯乱は説明されない。しかしひとつまたはそれ以上の無秩序の霊魂はあきらかに劣っており隷属的である。
かくのごときが神の存在についてのプラトンの論証である。この論証は、もとよりたしかに一神論を唱えるものではない。もっともプラトンその人がひつとなる神を信じていた疑いえないが。じつのところ、これは当時の教養あるアテナイ人のすべての信じているところであった。