わたしは、すべての被造物はひとつの有である、と言う。ある師は、被造物のあるものは、他の被造物に有を付与するほど神に近く、それほど多くの神的光をみずからの内に写し持っているのだと語る。
これは正しいとはいえない。なぜかといえば、有はきわめて高くきわめて純粋で、神にきわめて似ているので、神が神自身の内に有を付与するときのほかは、いかなるものといえども有を付与することはできないからである。神の最も固有な本質は有である。ある師は、ある被造物が別な被造物に命であれば与えることは十分可能である、と言っている。
まさにそれゆえにこそ、何であろうともすべてのものは、ただ有においてのみ基礎づけられているのである。有は原初なる名である。不完全なものはすべて有からの脱落である。わたしたちの命の全体はできるならひとつの有でなくてはならない。わたしたちの命がひとつの有であるかぎり、そのかぎりにおいてわたしたちの命は神の内にある。わたしたちの命が有の内に納れられるかぎり、そのかぎりにおいてわたしたちの命は神と似たものとなる。
ひとつの命とは取るに足らないものでしかないかもしれない。しかし、人が有として命をつかむかぎり、その命は、これまでに命が手に入れたどんなものよりも高貴なものとなる。わたしは次のように確信している。魂が全く取るに足りないものを認識したとしても、それが有を持つならば、魂は一瞬たりといえどけっして二度とそれに背を向けることはないであろう。