独裁好み
独裁好みとは、権力と利益を執拗に求める支配欲であると思われる。
すなわち、執政官の補佐となって、祭礼の行列をとりしきる人には、どういう人たちを選んだものだろうと民会が審議している場合、彼は進み出てわが見解を述べる。「その人たちは独裁権をもつねのでなくてはならぬ」と。そして、他の人たつが、10人説を提案すると、彼は「一人で十分だ。だがその一人は、すぐれた人物でなくてはならぬ。支配者の数多きは善からず、支配者は一人たるべし。」と語る。だがそれ以外の句は、一つも心得ていない。
「われわれだけで団結し、もってこの審議にあたらなくてはならぬ。烏合の民衆や広場の者どもから遠ざからねばならなぬ。要職選挙にあたって民衆に尻尾をふり、ときには彼等の侮辱を、ときにはその尊敬をうけたりすることはやめねばならぬ、いやしくも、彼ら民衆か、はた、われわれか、そのどちらかがこの国を治めるべき時であれば」などと。
さらにまた、気取った風に上衣を肩にかけ、外出し、つぎのような文句を、悲劇の台詞よろしく朗々と口にしながら、誇らしげに闊歩する。「密告者ゆえ、この国には暮らしもならず」とか、「公務につかんと心はやる者たちの望むところ、そもそもいずくに在りや、これ、われのかねてより不審とするところなり」「忘恩の徒輩はこれ民衆、恩をふりまき、与える者の側につねにつく」「憎むべきは民衆の頭目なり」「テセウスは、12国を1つの国に統合し、もって民衆の勢力を増大せしめ、ついには王政も壊滅させて、万事の支配権を民衆の手にゆだねたればなり。されぱ当然の報いを彼はうけたり。彼ら民衆の手にほうむられた最初の者なれば」、と。その他それに類したことを、外国の人たちにも、また人生観、政治観ひとしくする同胞の者たちへも、彼は口にするのである。
テオプラテス「人さまざま」