2016/11/27

広島原爆は世界の涙をのむ

     私達は比治山にのぼって、山の防空ごうに入りました、その途中父は、方々の家の屋根や、植木などに萌えている火を、水そうの水をかけて消してゆきました。しかしそんなことでは、とうていかなうことではありません。又その途中で、いく人か死んでいるのを見かけました。そのたびにごとに私は胸がつまって、とても見ていられませんでした。しかしだんだんと山をのぼっているうちに、たくさんの死人がごろごろしていたので、どうしても見ないわけにはゆきませんでした。その中には、私の知っている人もだいぶいました。やっと山の防空こうにたどりついたのですが、やはり父はおちつかないらしく、下の方へおりて行きました。まもなくバケツに水を入れそれにひしゃくをつけてあがってきました。山にのぼる途中でもう息もたえだえになって、「水をくれ、水をくれ。」と叫んでいる人々に役人が「水をやってはいけない。」と言うのもかまわず一口ずつ入れてやりながら、あがってきたのです。「どうせ水をやっても、やらなくても死ぬ人なら、ほとがる水くらいのものはやってもいい。」というのが父の考えでした。私も又父の考えがもっともだと思いました。
 山の途中のほら穴は、とても入ることのできるような穴ではありませんでした。けが人でいっぱいで、もう死んでいる人もたくさんいました。穴の中は真っ暗で、やけどや、きずの生々しいにおいで、息もつまりそうでした。頭の上ではぶんぶんとたくさんのアメリカの飛行機がとんでいます。そして今にもばくだんをおとしそうな気がして、一時もぐずぐすしてはいられません。しかしあとで分かったことですが、それらの飛行機はあの原爆を落とした後の有様はどんなかと、ていさつに来たのだということです。その時のあのむごたらしい様子を空から見て、アメリカ人はどう思ったでしょう。いかにわれわれの敵であったとはいえ、なみだをのまずにはいられなかったと思います。

山村百合子(広島原爆の当時小学校三年生)
「原爆の子ー広島の少年少女のうったえ」(長田新編)