我々は、我々の無秩序と混乱との如何にに多くが、我々の社会をこれまで支配した野蛮人とか人々の無秩序と混乱との如何に多くが、我々の社会をこれまで支配した野蛮人とか俗物とかの人の階級・国体の間に存在する、正しき道理すなわち至高最善の自己に対する不信仰によるか、彼等がそれらの中においてただ彼等の日常の自己を主張し表現して永らく我々を支配して来た諸組織の、不可避な衰微と崩壊とによるか、彼等が正しき道理によってではなく彼等のの日常の自己によって建設し今なお支配していると良心に顧みて認めざるを得ない社会が、それの報復者を阻止せむとして激しく動揺するに際した場合の彼等のの優柔不断によるかを見たからであろう。
しかし、我々ー正しき道理と、我々の最善の自己を解放し向上せしめる義務と可能性と、完全に向かう人類の進歩とを信じる我々ーにとっては社会の組織、この厳粛な劇がその上で展開しなければならないあの劇場は、神聖である。誰がそれを支配しようとも、また如何なる我々が彼等から支配権を奪うことを欲しようとも、なお、彼等が支配している間は、我々はしつかと、一意専心、無政府状態と無秩序とを鎮圧することにおいて彼等を支持する。それは、秩序なかりせば社会は存在し得ず、社会なかりせば人間の完全は有り得ないからである。
我々の現在の紛糾と混乱との如何ほど多くを我々のうちの大多数の人々の誤れる観念がひき起こして永続させる傾向にあるかを、既に見たのである。それ故、教養の同情者の現在における真の任務は、この誤れる観念を消滅せしめ、正しき道理と、確実な明白な真理とに対する信仰を弘め、人々をとて無私に自由に彼等の思想と意識とを彼等のお定まりの概念や習慣の上に働かすやうにすること、人々をして不完全な知識を以って誠実に行動するよりも、行動するためのより堅実な知識の基礎を得るようにさせることである。