2016/08/08

出生不平等からの階級差別

国 家

   家族の自然的社会は一般的国家的社会に拡大される。国家的社会は自然性に基いて建築された結合であると共に、また自由意志によって結ばれた結合でもあり、法に基づくと共に道徳にも基づくものである。しかし一般的にいえば、国家的社会は本質的には個人から成り立った社会であるというよりは、むしろそれ自身として統一した、個性的な民族精神と見られるものである。
 国家学とは、それ自身において生きた有機的全体である民族がもつところの体制の叙述である。
 国家は一般的なものとして個人に対立する。国家はその一般的なものが理性に一致するだけ、また個人が全体の精神と一つになるだけ、ますます完全になる。国家とその政府に対する市民の本質的な心情は、政府の命令に対する盲目的服従にあるのではなく、また国家の制度や処置に対して各人が唯々として賛意をあらわさなければならないということでもない。ただ国家に対する信頼と賢明な服従にある。
 国家はその体制の契機となす種々の権力を持つ。立法権、司法権、行政権は一般に権力の抽象的な契機である。実在的な権力は全体を構成するところの権力、すなわち裁判権と警察権、財政上と行政上の権力、軍事上と政治上の権力であって、それらの各々の中にはじめていまいう抽象的な契機が現れるのである。しかし、それらのすべての権力行使の最高の中枢は政府である。
 骨格の各種の身分は一般的に具体的な区別であって、それに基づいて個人は階級に分けられる。階級は主として富、関係、教養の不平等に基づく。しかし、これらの不平等はみた一面では出生の不平等に基づく。しかも、この出生の不平等によって個人の国家に対する活動に差別が生じ、ある者は他のものよりもより多く有用だという、有用性の差別が生じる。
 憲法は諸種の国家権力の分立と関係、及び各々の効力関係を確定する。特に国家に対する関係から見た個人の諸々の権力と個人が政府の選挙に当って、のみならず一般的市民である限り持つはずの個人の参与の範囲を決定する。
 慣習、法律、憲法は民族的精神の有機的な内面的な内的生命を構成する。民族精神というものの原理または洋式と規定がその中に現れれている。その他に民族精神は外的な関係と外的な関係と外的な関係と外的な運動を伴う。


ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル「哲学入門」

2016/08/07

戦争に懲りない戦争

1945(昭和20)年1月1日

 昨夜から今暁にかけ3回空襲警報となる。焼夷弾を落としたところもある。一晩中寝られない有様だ。僕の如きは構わず眠ってしまうが、それにしても危ない。
 配給のお餅を食って、お目出とうをいうとやはり新年らしくなる。曇天。
 日本国民は、今、初めて「戦争」を経験している。戦争は文化の母だとか、「百年戦争」だからといって戦争を賛美してきたのは長いことだった。僕が迫害されたのは「反戦主義」だという理由からであった。戦争は、そんなに遊山に行くようなものなのか。それを今、彼らは味わっているのだ。だが、それでも彼らが、ほんとうに戦争に懲りるかどうかは疑問だ。結果はむしろ反対なのではないかと思う。彼らは第一、戦争は不可避なものだと考えている。第二に彼らは戦争の英雄であることに酔う。第三に彼らに国際的知識がない。知識の欠乏は驚くべきものがある。
 当分は戦争を嫌う気持ちが起ろうから、その間に教育をしなしてはならない。それから婦人の地位をあげることも必要だ。
 日本で最大の不自由は、国際問題において、相手の立場を説明することができない一事だ。日本には自分の立場しかない。この心的態度をかえる教育をしなければ、日本は断じて世界一等国となることはできなぬ。総ての問題はここから出発しなくてはならぬ。
 日本が、どうぞして健全に進歩するようにーそれが心から願望される。この国に生まれ、この国に死に、子々孫々もまた同じ運命をたどるのだ。いくくでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考えを捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るようにー。「仇討ち思想」が、国民の再起の動力になるようでは国民に見込みはない。
 僕は、文筆的余生を、国民の考え方転換のために捧げるであろう。本年も歴史を書き続ける。幸いにして基金もできた。後世を目指して努力しよう。
 本年の予想ードイツは本年度中に敗戦するであろう。大東亜戦争は本年度中には片はつくことはないであろう。ダンバートン・オークス案は成立するであろう。そうすると日本だけが、孤立奮闘するような事情が生まれるであろうことも想像できる。

清沢 洌 「暗黒日記」

2016/08/06

大陸の土を踏む従軍看護婦

大陸の土を踏む

 大本営陸海軍の臨時ニュースが入る。「帝国陸海軍は1941(昭和16)年12月8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」。ラジオは、ハワイ真珠湾のアメリカ軍太平洋艦隊を全滅させたことを伝えた。1931(昭和6)年満州事変、1937(昭和12)年支那事変が始まる。「八紘一宇(はっこういちう)」の合言葉により、全世界を一つの家とし、その家の家長は日本の天皇陛下である。勝利のちょうちん行列がにぎやかに行われた。「大東亜共栄圏」は間近と信じた。
 看護婦は婦人職業の花形だった。17歳の時に松江赤十字看護養成所に入学する。連隊責任がおしつけられ予告なしに私物検査があった。不愉快な思い出として残る。「1億火の玉」「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません勝つまでは」という標語により、男子はカーキー色の国民服と坊主頭、女子はモンペ姿に統一される。「外地派遣救護要員トシテ召集セラルル筈ニ付承知相成度候也」と赤紙が来る。
 釜山連絡船興安丸に乗り込む。行ん先は知らされず。「飯飯進上」と浮浪児が残飯乞いに群がる。列車でEさんの帽子が飛ばされ「陛下からいただいたものを」と始末書を取られる。南京第一陸軍病院は、国立中央大学を接収した病院でベッド数1500床、看護婦1000人いた。「患者に母性愛を持ってはいけない」「石のようになって働け」「伝染病結核病棟に勤務して感染したら恥辱と思え」と言われ、看護婦の病気は私傷であった。罹患しちら最後、国から見放される。秋になると流行性脳脊髄炎の患者がどっと入院してきた。弟の戦死を知り忍び泣く。
 1945(昭和20)年が明けると、戦局はいよいよ不利になり、甘い物は少なく、白衣も草色に染めた。看護婦は軍服を着て「女の兵隊」と言われる。隣村のKさんと会う。彼は防疫給水隊に勤め、そこが細菌研究所であることは、公然の秘密として知れ渡っている。パンをあげて、だましてクリークを連れて来て生体実験して殺していると誰言うことなく言われていた。1945(昭和20)年7月25日、患者を迎えにトラックで出かけた時に、機関銃掃射にあう。患者は石炭船で輸送される。勝った勝ったの戦況報告とは信じられない惨状であった。よくもこんなに死ぬものと思うほど死人が出た。
 1945(昭和20)年8月15日に敗戦となる。「陛下の赤子として力が足りなかった」と自殺者が続いた。日本軍は南京市市民老若男女4万2000人を虐殺し、南京進撃中にも30万人の中国人を殺していたと言われる。軍の関係者が汚れた過去を消すため、防疫吸水隊の建物を爆破する。1946(昭和21)年7月に内地に帰る。

白の墓標銘(従軍看護婦の記録) 鈴木 妙子

2016/08/05

麻山事件(婦女子400名の自決)

 満州の野に、婦女400名が自決する。1945(昭和20)年8月12似に満州の東部国境に近い麻山において避難途上にあったハリバ開拓団の一団が、ソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子約4百数十名が自決する事件が起こった。介錯は十数名の男子団員により、小銃を用いて行われた。男子団員は、その後ソ連軍陣地に斬りこむことになっていたが、果たせずまもなく終戦を迎え、その過半数し新京ハルピンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している。新聞が取り上げ報道する。麻山事件の男達は口を開こうとしない。だからこそ身をよじるような痛烈な痛みに傷口から血をしたたらせその十字架の重みに耐えている。性格に記録したいと思う。
 加藤完治は、我が国の過剰人口と過小耕地の問題の解決に満州に求めた、「開拓の父」と呼ばれた。1932(昭和)7年に第一次の武装移民集団423人が渡満州し入植する。1937(昭和12)年に20数年らわたり百万戸送り出す計画へと発展してゆく、終戦時に青少年義勇軍は、8万530人となる。加藤完治の率いる職員は誰も傷つくことなく、日本に帰ってきている。戦犯の追求を恐れて、福島県白河市に入植する。彼は満州に行った開拓者が、生きて帰ねのは不思議だ。全部死んでもよかったと言った。「満州は10年の間に整備されてゆき天照大神を祀る。家族を呼び。学校も出来る。」といっていた。
 満州の気候は、冬期が厳寒であるのに、夏は猛暑が襲うという大陸的気候である。雨量は日本の1/2から1/3であり、北と南でし農耕法も当然違っている。東北満州は雨量が多いと黒色重粘の土壌は、一度強い雨が降れば、平均3〜6尺の表土にたい水して、それが強い日光に照らされるとコンクート状に固まり、毛根の発生が破壊され枯死する。スコップ1ちょうも馬も日本の物ではだめである。1945(昭和20)年ころには、食料の供給状況は悪化し、開拓団も裸で供出する所まで追い込まれる。7月に入って全満州かせ「根こそぎ動員」が下令される。「まぼろしの関東軍」からも日本政府からも見放された。
 1945(昭和20)年8月9日に日ソ開戦となる。30余機の襲撃死に死に狂いの列車争奪の悲痛な叫びと凄まじさ、悲痛な叫びと断末魔の呻き声が起こる。古川吉岡も家族を撃ち殺す。「私を殺して下さい。と女達が声をあげる。自決しよう。晴着を着て水盃を交わし、みな鉢巻をしめており、覚悟の様子が解る。集団自決の現場を前にして「正に魂も昇天する驚愕」と言っている。苦悶する婦女子に、とどめの弾を撃って楽にしてやりたい。そんな余裕がなく結局は成し得なかった。大勢集まって休息しているように見えた。近づいてみると400人くらいの婦女子が自決している。皆んなうつぶせで死んでいた。現場から7人の子供が現地人に助け出された。1947(昭和22)年5月には汽車の窓から白骨が真白になるほど散らばっていた・そのあと昼も白く青光りする燐の燃えているのが見えた。死臭は4Km先からも臭ったという。
 先頭集団が、ソ連軍に壊滅した後でも、2Km後方には何の情報も入って来ない。青校正は「団長以下全員自決玉砕す。斬込隊編制のため全員集合せよ。」茫然自失した福地医師から「斬込みに婦女子を連れて言ってどうする。」と強い叱責を受ける。そのために救われる。上野勝は死んだと思った妻と子にばったりと会う。彼は麻山の人々に対する追目をさらに深くする。1957(昭和33年)7月にハルピン副団長として処理を済ませ、ひっそり南米ボリビアに渡り奥地にある日本移民として入籍し、密林に斧を振う。満州国の皇帝溥儀は、建国以来13年5ケ月で歴史を終えた。1943(昭和18)年ハタバに飛行場が出来る。一度も使用せず、敗戦後に中国大陸の日本人捕虜に使われた。1日に蒸しパン3個で鞭で追い回し仕事をさす。労役の果て、軍機保持のためにひそかに処分された噂もある。

中村 雪子

2016/08/04

取囲む生殺の権利の暗雲

 父親と君主との間、生活難の重荷を負わされている貧者と更に一層苦しい悩みの下にため息をつく富者との間、無知な女と不評判な博識家との間、惰眠を貪る者とあの鳶のような力が全世界に影響する天才との間に溝渠がある。
 しかし高い地位にある一方の人に純粋な人間らしさが欠けているならば、そこでは暗雲が彼を取り囲むであろう。ところが賤しい伏屋にあっても陶冶された人間らしさは、純粋な気高いそして足るを知る人間の偉大さを自分から放射する。
 だからたとえ高い位にあって、一人の君主が彼の囚人のために賢明な正しい法律を渇望しても、おそらく彼は黄金の一杯はいった財布をその経費として浪費することになるであろう。ところがもし彼が軍事会議において、自己の家の内部においては、また狩猟局と税務局とにおいて、人間らしさを発揮し、自己の家の内部においては純粋な親心を発揮するならば、彼は彼の囚人の裁判官や守衛を賢く真面目にそして父親らしく陶冶するようになるであろう。
 こうしたことがないならば、聡明な法律の文句も無情な人の口にする隣人愛の言葉と選ぶところはない。君主よ、汝はおそらく汝の求める心理の浄福からそのように遠く離れているであろう。
 ところが汝の脚下の塵埃の中にいる世の父親たちは、不良な息子たちを賢明に取り扱っている。君主よ、彼らの眠らぬよるの涙のうちに、また彼らの書の重荷の苦しみのうちに、汝の囚人のために智慧を学べ。そしてこのような道において智慧を求める人々に、汝の有っている生殺の権利を与えよ。君主よ、この世の浄福は陶冶された人間らしさであり、そしてこの人間らしさによってのみ啓蒙と智慧とそして一切の法律の内的浄福との力が働くのである。

ペスタロッチー「隠者の夕暮れーシュタンツだより」

2016/08/03

水子の譜

 引揚孤児と犯された女たちの昭和史の記録である。富田糸絵は30歳を過ぎた混血の女性で、引揚船の中で生まれた。中国でソ連兵に犯された母親が産んだ。白い肌、青く澄んだ眼で、福岡のジーパンセンターで働く。聖福寺境内の引揚げ孤児施設に、母親が置いて駆け落ちてゆく。託児所に預かれて育てられた。劇場主に里子に出す。夫婦に三人の女の子が生まれる。二日市保養所はひそかに治療回復させる施設である。強姦によって女性に堕胎手術が行われ、性病も治療された。糸江は大阪で結婚し、キャバレーにも勤めたこともある。養母は彼女に静かにしてくれと言う。「博多に行けば何とかなる」と思い博多に来たる朝鮮人滞留者は常に1万5千になり、引き上げた来た邦人の数は32万人になり、送還した朝鮮人は49万人にのぼる。
 聖福寺を借り受けて病院にする医療救護は。泉靖一が組織する。才能を持った人で、政界にあれば大臣が務まるような男であった。1947(昭和22)年に14人と保母さんが集まって話合う。「引揚」「病気」「親との死別」という三重苦を受けた恐怖で神経や精神が冒されている。引き取り手のない子供は、孤児施設の松風園にひとまず入れる。1947(昭和22)年4月5日、最後の引揚船である恵山丸が入港し、その業務を終える。220人にコレラ患者、67人のコレラ死亡者を出した。引揚の専従職員は1500人にのぼる。聖福寮は1947(昭和22)年3月に任務を終える。1947(昭和22)年3月18日に、「宿泊託児所聖福子供寮」として開設する。泉靖一の人間に対するやさしさと、福岡友の会の若い女性達の努力の結果により、児童33名、保母9名で開所する。1952(昭和27)年に「いずみ保育園」と改めた。1965(昭和40)年4月に閉院になる。寺総代が境内借地からの立退をすませた 。
 二日市保養所は、京都帝大医学部のメンバーがその任に当たる。中国大陸に残留した一般邦人の引揚は、米軍艦艇の大量配船によって1年で終結した。二日市保養所は、不法妊婦堕胎のための秘密病院であった。日本軍も南京占領時、外人の証言によると2万人の強姦事件があった。性病検診とその治療が行われた。日本民族の防衛が目的で、女性の深い傷に思いを寄せる人は誰もいない。
 人工妊娠中絶手術は、橋爪医師が1人でする。不法妊婦47名、性病11名の患者がいる。8か月以降の堕胎児手術には穿頭手術を施す。特殊なノミの様な器械を入れる。泣きもせずに脳が出て、桜並木の土手に埋められる。済生会二日病院は、病院では時々腑に落ちないことが起きる。土地や建物に付いた霊を慰めるため、年に一度祈祷師を招いておはらいをする。暴れて困った手術の人はいない。なすがままで、無邪気な状態であった。麻酔もされずに手術台に乗り、一つあげない女達、片すみで力なく泣き声をあげた赤ちゃん、そのおぞましさに戦慄する。
 1946(昭和21)年4月25日、博多港に婦人健康相談所が設置される。国立福岡療養所、九大、久留米医専の病院などでも手術や治療が行われた。不妊妊娠の女性だけでなく、正常妊娠でも先行き不安から申告して堕胎するケースもあった。佐世保湾内に浮かぶ針尾島には「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報を発した無線機がある。最近では原子力船「むつ」の修理港にも、当時は何千人と着く復員軍人や一般引揚者を受け入れて、また吐き出す。宿舎には1日数万人を賄う炊事場、浴場の大煙突を中心に、附属病院、郵便局出張所、そして悲しい火葬場までを持つ小都市になっていた。

上坪 隆

2016/08/02

方丈記は徹底せざる無常

ゆく河のながれはたえずして、しかも.もとのの水にあらず。
よどみにうかぶうたかたはかつきえかつむすびて、ひさしくとどまる事なし。
世中にある、人の栖と又かくのごとし。
たましきのみやこのうちに棟をならべ、いらかをあらそへるたかきいやしき人のすまいは世々をへてつきせぬ物なれども、是をまことかと尋ねれば、昔しありし家はまれなり。
或いはこぞやけてことしは作り、或いは大家ほろびて小家となる。
すむ人も是に同じ。
ところもかはらず、人もおおかれど、いにしへ見し人は二三十人が中にわづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生きる々ならひ、ただ水の泡にぞ似たりける
知らず、うまれ死ぬる人いずかたよりきたり、いずかたへ去る。
また知らず、かりのやどり、たが為にか心をなやまし、なにによりてか目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと無常をあらそうさま、いはばあさがおの梅雨にことならず。
或いは露おちて花のこれり。
のこるといへどもあさ日にかれぬ。
或いは花しぼみて露おちて花て露なほきえず。
きえずといへども、夕べをまつ事なし。

作者は、社会において軽き意味にての隠遁者としての境遇に立てりしものと認められる。かくの如き内外の種々の事情は作者をして世を遁るるに至らしめしならむ。無常観も厭世主義も徹底せざる観あり。本書により、日本人の性格の消極的方面は或いはあらわれたりとすとも積極的方向はおそらく認めがたき所ならしむ。

鴨 長明「方丈記」山田 孝雄校訂

2016/08/01

戦時下の26法の言論統制

第二次世界大戦において、日本では二十六もの法令にて言論統制が行われた。
治安警察関係の法令
1) 刑法、2) 治安警察法、3)警察犯処罰令、4) 治安維持法、5) 言論・出版・集会・総社等臨時取締法 6) 思想犯保護観察法
軍事国防関係の法令
7) 厳戒令、8) 要塞地帯法、9) 陸軍刑法、10) 海軍刑法、11) 軍機保護法、12) 国家総動員法、13) 軍用資源秘密保護法、14) 国家保安法、15) 戦時刑事特例法
新聞出版関係の法令
16) 新聞紙法、17) 新聞紙等掲載制限令、18) 出版法、19) 不穏文書臨時取締法
郵便放送映画公告関係の法令
20) 臨時郵便取締法、21) 電信法、22) 無線電信法、23) 大正12年逓信省令第89条、24)映画法 25) 映画法施行規則、26) 公告取締法

新聞紙法第22条「内務大臣は新聞紙掲載の事項にして安寧秩序をみだし又は風俗を害すると認るときはその発売及び領布を禁止し必要な場合においてはこれを差し押さえることを得」の安寧処分が、解釈次第でいくらでも運用でき、裁判によらず、政府の裁量で行政処分でき、取締側には実に好都合であった。内閣情報局が、言論統制の中心的役割を果たした。発行前の検閲は、1943(昭和18)年では約9万件、その内不許可が1万2000件もあった。さらに陸海軍省や官庁までも言論統制を実施してマスコミはあやつり人形となった。

(読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事)

2016/07/31

正義とは何か

正義(Justice) 

 正義とは理性的部分が貪欲な部分、強欲な、貪婪な、そして暴利をむさぼる部分を封じる力である。それは君のものであり、ぼくのものでもある諸問題を、仲裁者のように、あるいは仲裁者によって解決すめように導く。
 貪欲な部分はきわめて狡猾で、最初、判断を誤らせねものだから、反対の術策は慎重な対応策を取ることによってはじめて正義が保たれる。主要な術策は契約である。それは貪婪さがまだ明確な対象をもっていない時、作成された契約である。ある人が二人の相続人の間に次のような分割契約を考え出した。「君が分割をして、ぼくが選ぶか、あるいはぼくが分割して君が選ぶか」。このことは他の術策もあり得ることを示唆している。あらゆる契約を外にして、正義の原則は平等ということである。すなわちあらゆる交換、分割、あるいは支払いにおいて、ぼくは自分の知っているすべての知識を用いて相手の立場に立たねばならないこと、そしてその取り決めが、はたして相手の気に入るはずのものであるかどうか決めなければならない。
  正義の基礎であるこの他者に対する大いなる配慮は、同胞はつねに目的として考えられるべきであって、決して手段として考えててはならない(カント)ということに帰着する。たとえば、給与。それでもって人間らしく暮らしていけるかどうか吟味しなければならない。信心深い女中。はたして彼女に、礼拝に出席する時間、福音書を読む時間、などがあるかどうか考えなければならない。家政婦のこどもたちのこと、などを考えなければならない。これらの例からわかるように、人は仲介者(仲買人、執事、デパート)なしですませばすますほど、正義を為すいっそうの手段をもつのである。


アラン(エミール・オーギュスト・シャルティエ)「アラン 定義集」

2016/07/30

竹やり事件「勝利か滅亡か」

「国家家存亡の岐路に立つ事態が、開戦以来二年ニケ月、緒戦の赫々たるわが進行に対する敵の盛り返しにより、勝利か滅亡かの現実とならんとしつつあるのだ。大東亜戦争は太平洋戦争であり、海洋戦である。われら最大の敵は太平洋より来寇しつつあるのだ。海洋戦の攻防は海上においけ決せられることはいうでもない。しかも太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千化海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては最早万事休止である。ラウバルにせよ、ニューギニアにせよ、トラックにせよ、わが本土防衛の重大なる特火たる異議がここにある。

 敵の戦法に対してわれわれの戦法を対抗せしめねばならない。敵が飛行機で攻めに来るのに、竹やりをもっては戦い得ないのだ。問題は戦力の結果である。
 帝国の存亡を決するのは、わが海洋航空兵力の飛躍増強に対するわが戦力の結果如何にかかって存するのではないか。」

 (1944(昭和19)年2月13日毎日新聞朝刊一面の配達後に発禁処分)

   毎日新聞が、すべての報道機関から連戦連勝のニュースしか聞かされていない市民に対して、太平洋戦線が米国の進撃で日本が苦況にあることを知らせた。東条英機首相は激怒し廃刊を迫るも、毎日新聞側は守り通した。

2016/07/29

神道は元来が政治思想

 「神道」は元来が政治思想であって、厳密には、宗教的信仰性のものではない。霊性そのものは顕現ではない。これを霊性まで転向させようとする時は、「外来」と言われている思想および情緒に摂食し、これを摂取して自分を育てあげなければならぬ。この矛盾はは「神道」に内在的なものであるから、何かの機会に他の精神的なものと衝突する危険性がある。「神道」では僅かにその萌芽を見る。これを浄土思想など組織的に進展し発展するのに比べると、まだまだと言わねばならない。真の霊性なものはこれからである。 
 鎌倉時代に、日本的霊性のもっている最も深遠なところが発揮せられた。それまでは、日本民族の霊性はちょっと頭をもちあげたにすぎない。鎌倉時代になって、根本から動いてみずから主体性をもつようになった。何か外来の事変に出くわすと、内に蔵せられてきがつかなかったものが、こつ然と首をを動かして事物の表面に出るのである。何か刺激をもたなぬと心の動きが鈍るのは、個人の生活はもとより、集団生活でも実に動揺である。
 鎌倉時代に、それまで長いあいだ外国との交通が途絶えしていたのが、また初められた。平安時代が政治上に崩壊的気勢を示し、文化的に爛熟期をすぎて頽廃期に入ったとき、何かの衝撃が与えられないと、民族精神はいび不振、ついに取り返しのつかぬほど腐敗するのであった。
  そこへ大地の声が、農民を背景とする武家階級から上がって来た。そこへ南宋を圧迫した勢いで、日本の西辺を侵しきたらんとする蒙古民族の猛進が頻繁に伝わってくる。入宋の僧侶たちは新しき大陸の空気を呼吸して帰ってくる。今まで沈黙を守るしかなかった庶民階級の思想と感情が、武家文化ー大地文化ーを通じて聞かれるようになる。何が日本民族の霊性そのものの響きが、この間に鳴りわたらなければならぬのである。果然、武家階級は禅堂に入り、庶民階級は浄土思想を草案した。武家文化は更に公卿文化を統摂することによりて、善精神をして日本人の生活および芸術の中に深く浸透した。一方浄土系思想は日本霊性の直接的顕現として大地に親しむものの中にに結実した。

鈴木 大拙 「日本的霊性」

2016/07/28

戦争状態は敵意と破壊

 戦争状態は、敵意と破壊との状態である。それゆえ、言葉と行為によって、感情的性急にではなく冷静沈着に、他の生命を狙うと宣言すると、これによって彼はこのような企画をした相手に対して、彼は戦争状態におかれるのである。何故なら彼は自分の生命を、他人つまりこのような相手方や、あるいはその防御に立ち、その議論の肩を持つ者の力にょって奪われる危険にさらしたからである。私は自分に破壊の脅威を与えるものを破壊する権利が合理的であり、また正当である以上、それをもたざる得ない。基本的自然法によると、ひとは出来る限り生存を維持されなければならないが、もしすべての者の存続は不可能とするならば、罪なきものの安全が何よりも望ましいからである。そしてひとが自分に対して戦いをなしあるいは自分の存在に対して敵意を示した者を破壊してもいいのは、彼が狼や獅子を殺してもいいのと同じ理由によるのである。何故ならこのような人は、理性の普通法の高速の下にあるのではなく、ただ暴力の法則を知るのみであり、したがって猛獣、すなわちもし彼がその手におちれば必ず殺されるにきまっているところの危険有害な動物として取り扱われても仕方がないからである。
 それ故、他の者を自己の絶対権利下におこう試みる者は、これによって自分自身を、そのものと戦争状態におくのである。けだしそれはその者の生命を狙うことの宣言と解されねばならないからである。すなわち、私の同意なしに私を権力下に置こうと欲する者は、もし私を手に入れるならば、その欲するままに私を殺すであろう、結論する理由が私にあるからである。というのは暴力によって私に私の自由権に反することを強制する、すなわち私を奴隷にしようとのではなければ、何人も私を彼の絶対権利の下におこうと欲するはずはないからである。このような力から自由であることが、私の生存を維持するための唯一の保障である。そしてそれを保障している自由を私から奪い去ろうとする者を、私の生存維持の敵とみなすことは、理性の命ずるところである。このようにして私を奴隷にしようと試みる者は、これによって自分を私と戦争状態に置くのである。自然状態において、このような状態にあるものがすべての自由を奪いさろうとするものは必然的に、その他の一切のものを奪い去ろうと試みているのだと想像しないわけにはいかない。その自由はその他の一切のものの基礎であるからである。それはちょうど社会状態において、その社会もしくは国家の人々に属する自由を奪い去ろうとする者は、またその他の一切のものを奪いさろうと企てているものと考られねばならず、したがって彼らは戦争状態にあるものと見なければならないのと同じである。

ジョン・ロック「市民政府論」

2016/07/27

平和会議は一大警鐘

 人類の平和は、時代人心の渇仰であるのみならず、実に時勢の傾向として特に世の学者経世家が注目に値すべきものである。しかるに今や、オランダのハーグにおいて第二平和懐疑の開催を見る。吾人の如き平和主義者のためには、実に好箇の武器を提供したるものと言わねばならない。
 あえて平和主義というといえども、もとこれ列国における戦争党の会合ではないか。戦争を商売とする軍人、戦争を摘発する政治家、戦争に裏書する学者とが、燃ゆるが如き敵愾心を抱いて、一堂に会合するのである。戦争に対する痛切なる恐怖のほか、真の平和に対する渇仰に至っては寸毫だも有するものではない。従ってその会合の大仕掛にして壮麗なるにも似ず、人類の平和幸福に対しては、一つ積極的効果を止めずして、会議を終結するの滑稽を見るに至るや、決して怪しむに足らぬ。しかり、当代の権力階級が名をを人道に仮りてする舞踏は、独り平和主義とは言わず、すべて人事百般の施設において同様である。
 いやしくも現代の権力階級が、時勢に動かされ人心の要求に促されて、名を平和主義に仮りたる以上、その実際の如何に係わらず、彼等は必ずやこの会合に於いて、到底除外すべからざる一要素あることを忘却してはならぬ。たとへ心中一種の不快を感ずるとしても、この一要素のためにぜひともその一席を分与せなければならぬ。然らば一要素とは何んであるか。これすなわち真に平和を渇望し、真に平和実現のために努力健闘しつつある労働団体の代表者で、平和会議が、この代表者を有せざる限り、それは幾回の熟議を重ねるとも、遂に滑稽に始まりて滑稽に終わる一場の喜劇に終わるであろう。
 真に一場の滑稽劇にすぎぬ! されど吾人はその内に、神聖なる時勢の暗示を黙会することができる。満潮の如き人心の大渇望を見ることができる。然り、この点よりして平和会議は現代の文明に対して、一大警鐘を打ち鳴らすものといわねばならない。
   おもうに平和はいがいの辺より来るであろう。今日囲碁、世界平和の創造者、人類統一の主体は、決して権力階級でなく、むしろ今日まで戦争の弾丸として使役され来たれり平民階級その人であるに相違ない。ながき犠牲と苦痛の間に、真に平和と協働と博愛とを渇仰する平民階級の手と手が、在来の国際的偏見を超越して、互に温かき握手をなす時、誰か、平和の降臨を否むことが出来ようか。
 吾人は単にこの見地よりしても、まさに開かれんとする、スッツドガルドの万国社会党大会に7、無限の興味と希望を有するものである。観よ、東天は既に紅を呈して、平和の神は、巨人の歩みを挙げたではないか。

田添 生「平民新聞論説集」

2016/07/26

長崎原爆で焼身の純女学徒

 信徒1万人の浦上教会は全滅した。軍需工場を狙ったのが、少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだそうだ。世界大戦争という人類罪悪の償いとして犠牲の祭壇に屠られ、燃やさる羔として選ばれたのではないか。長崎市の純心高等女学校の2年生の増本京子の母は、五島に帰してくれと江角校長に言う。「動員令を受けて軍属になった学徒隊員が、爆弾が怖くなって逃げて帰って、日本はどうなります」。「どうしても連れて帰りたければ退学届を出しなさい」。戦艦武蔵は三菱造船所で建造された。1945(昭和20)年4月26日に大波止港に空襲の爆弾が撃ち込まれた。5月14日定期船の長福丸は爆破され、定期航路は出なくなる。1945(昭和20)年6月20日沖縄戦で軍人10万人、市民15万人が命を奪われた。竹槍が武器となる。6月29日佐世保大空襲、8月1日長崎大空襲となる。愚かしいことに、松ヤニ(松根油)は質が悪く飛行機を飛ばすことはできなかった。アメリカ軍はサイパン島、テニアン島をB29の基地とする。原爆投下方針は、2年以上も前の事であった。隊長ポールチベット大佐の「エノラ・ゲイ号」は、広島に8月6日に原爆を投下した。次に小倉、京都、新潟を選ぶが、京都を除き、長崎となる。落下傘3個が投下され、煙の輪がドーナツのように穴があいて、いったん地上に沈んで跳ね上がって行く。きのこ雲は真夏の太陽を隠して暗くなる。1945(昭和20)年8月9日午前11時2分のことであった。
 太平洋戦争になると、日本全国140以上の都市が爆撃・破壊され、世界史上空前の惨劇となる。火たたき棒とバケツリレーで立ち向かう以外の方法を考えなかった。憲兵隊がカトリック教会の建物撤去を要求した。原爆で江角校長は鉄筋コンクリートの下で、全身しびれて動く事ができぬ。大泉修練長を屋根をこわして穴から引き出し助け出す。敵のまいたビラの文句「日本よい国、花の国、7月8月、灰の国」。それが本当になった。丸裸に近い人が多い。知り合いの人でも見分けがつかない。着ている物がはがれたり、裂けたのは、爆発のあと空気が真空のようになったからである。重い物体まで空中に舞い上がった。8月9日午前0時、ソビエト連邦が満州に侵入してきた。本土決戦は、竹槍、石をはじき飛ばす石弓ではできない。矢上アサエは黒焦の子供に走り寄って調べた。死体は炭のようで、口を両手でこじあけて、わが子の歯型を捜した。134人の生徒を確認するまで焼け跡を掘り返しても死体は見分けがつかなかった。真黒になるほど、蝿がたかり、気味が悪い蛆が這い回る。疲れ果てて学校に帰り着いて、飛び上がるほど驚かされる。広い校庭の中はことごとく死体で、厳しい死臭がその上を渦巻いている。江角校長はすぐ辞職届を書いた。「生きている限りはあの子供たちの供養をします。どこにでも墓参りに行きます。230人の亡き学徒隊は、生きながら焼け死に血を吐きながら逝きました。なすべき事はただ祈ることです」。

高木 俊明「焼身ー長崎原爆の純女学徒の殉難」

2016/07/25

十字軍と回教の惨殺と流血

 十字軍は全般的事情につながり、西欧キリスト教世界の指導者が、もはや皇帝ではなくて法王である事を示した。十字軍は、西欧帝国の東方に対する偉大な共同企業なのである。もし一人の世俗的君主のもとに着手されたら、組織的な軍事行動を求めている。十字軍は宗教的な見地から出発した。聖墓を奪還する単純な目的から出発した。
 回教帝国はローマ帝国の廃墟の上に出来た。十字軍の運動の先頭には法王自身が立っていた。法王は不信者に対する征伐を勧説し、「神の思し召しだ」という叫びのもとにすべての者が十字架をとった。宗教的、世論的、教権利的動機の相合が働いていた。
  第一回十字軍はサラセンの国土に向かって殺到した。言語に絶した艱苦ののち、エルサレムを征服し、一つの王国を建設した。宗教的衝動は、一見矛盾するような諸様相の混合物となって現れた。征服された聖都のサラセン住民はおびただしい群をなして惨殺され、聖跡は流血にまみれた。これらの騎士の団体は、次第に背後のヨーロッパに拡がり、おびただしい財産を寄付させられた。十字軍に加入することを一種の名誉とした。
  回教国によって蹂躙される運命にあった。回教国の教主が没落しても宗教的諸侯にすぎないものになると、回教国は事実上の実験を掌握した。十字軍はまさに破滅に陥り、その事態が事実となって起こった。回教国は、滅亡せしめながら勢力を拡大した。
  重なる十字軍ではなんらの成果を収めなかった。善アジアが一体となって十字軍に対抗した。そもそも十字軍は、非計画的な経過をとったがために、その直接目的を達成しなかった。しかし、きわめて重大な意義を有する数々の間接の結果をもたらした。それは西欧全体に耐えることのない強固な統一の意識を与えた。これからひきつづく東方に対する衝動を生み、教会の首長に驚くべき優越性を与えた。
 法王立ちにとっては、エルサレムに対する企てが成功しなかったことは、好都合であった。すなわち法王等は、ヨーロッパをいつまでも法王等の目的のために駆り立てる口実を得た。

レオポルト・フォン・ランケ「世界史概観」

2016/07/24

英雄は常識のない動物

   ある人間が虎や熊と戦って見せても、私はその人間を別段に英雄とは見ない。曲馬団が来て、虎や獅子の口を閉口しても、英雄とみないで見世物と思う。喧嘩を見ても、英雄として受け入れない。まして、戦争をして見せた所では、喧嘩よりも一掃悪いものである。英雄と呼ぶのは大人たちの勝手であるが、私にはその英雄はうれしいものでも好ましいものではない。
  英雄は、戦争はおろか、喧嘩もしなかったので、たまに喧嘩しているのは、英雄でもなくただの人間たちであった。そのようにする者を極端に嫌う。植木屋の酒癖の悪い職人が、仲間のおとなしい職人と喧嘩して組み伏せたのを見て、大いに怒って、泣きわめいた。もちろん、組み伏せた職人を英雄だとも何とも思わない。戦争だって同じ事である。
 人間を切り従えたり、人の国を征伐するのが英雄ではない。野の虎でも恐れないのでどんな英雄でも恐れないとは限らない。ことわざの英雄は、赤子の泣くのを黙らせ、無邪気でなくし、多くの人を不安に駆らせ、英雄というものは、野の虎ほども常識のない動物である。
  世間でいう英雄とはゆわゆる植木屋の酒癖の悪い職人のような人間である。私の英雄は決して人を組み伏せてみせたりすることをしない人間である。赤子の泣くのを黙らせるどころか、赤子を黙らせるために大汗を流して、結局失敗して婆やに怒鳴られる位が落ちである英雄であった。
 私が塾にいた頃、十余人の塾生たち一同が歩ていた。年長の塾生が、向こうから来た同じ年頃の二人連れの少年の肩に触れたようだ。その少年はいきなり猛烈な勢いで友達につっ懸ってきた。とっさのことで友達はよろめいたがちっとも相手にせずにそのまま手を引いて行ってしまった。
  まず相手の少年の大胆さに驚かされた。十余人が列をなして歩いているのに、わずか二人きで、突撃を加える勢いは驚かすに十分であった。けれども、今に印象に残っているのは、こずかれた先輩が平然として相手のするがままに任せていた態度であった。多数を頼べは子どもとはいえ十余人いて、中にはかなり喧嘩好きもいるし、二人の少年をやっつける訳もない。平然として、手も足も使わないで、相手が引き下がると同時に、傍らの友達と見合わせて笑ったのである。この笑い顔は、私たち子供同士が常に取り交わしている顔で、別段英雄的の笑い顔ではなかった。
 この友達の笑い顔を思い出すごとに、暴力を軽蔑する気持ちになる。 

 英雄豪傑の類が限りなく尊崇されていることは何時の世にも変わりはないと思うが、私の浸っていた空気は、甚だ英雄豪傑の匂いがしない。国家教育なねものは確立していて、沢山の英雄豪傑のことが、崇拝心をそそるような方法で記載されていた。それにも関わらず、私の頭の中では、国家的ないし世界的英雄豪傑の待遇はみじめであった。多くの英雄豪傑をいろいろのことを聴かされる。しかし聞かされたという記憶すらはっきりとしない。

 長谷川如是閑評論集

2016/07/23

国家に役立つ教育

   近代の日本は、あらゆる大国に顕著に見受けられる一つの傾向を最も明瞭に示している。つまり、国家を偉大にすることを教育の至上目的とする傾向である。日本の教育の目的は、感情の訓練を通じて国家を熱愛し、身につけた知識を通じて国家に役立つ市民を作り出すことにある。この二重の目的を追求する際に示された見事な腕前である。
 ペリー提督の小艦隊が到来して以来、日本人は、自己保存が非常に困難な状況に置かれていた。自己保存そのものがけしからと考えるのでないかぎり、彼らがそれに成功した以上、その教育方法も正しかったことになる。しかし、彼らの教育方法は、絶望的な状況にあったからこそ正しかったのであって、どんな国民であれ、差し迫った危機にさらされていない場合はけしからぬものであったろう。 
 神道は、大学の教授さえも疑問をはさむことを許されないもので、そこには「創世記」と同じくらい疑わしい歴史が含まれている。日本の神学上の圧政に比べれば、デイトンの裁判も顔色を失って、瑣末なものになってしまう。これに劣らぬ道徳上の圧政もある。たとえば、国家主義、親孝行、天皇崇拝などは疑いをさしはさんではならないものであり、したがって、さまざまな進歩がおよそ不可能になる。この種のかんじがらめの制度は、唯一の進歩の方法として革命を誘発しかねないという大きな危機をはらんでいる。この危険は、いますぐというわけではないが、現実のものであり、主として教育制度に起因しているのである。
 近代の日本には、古代の中国の欠点とは正反対の欠点が見出される。中国の知識階級があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。教育が生み出すべきものは、たとい困難ではあっても、知識はある程度獲得できるものであり、知識はある程度獲得できる。知識の誤りは注意と勤勉さにより正すことができる教育である。
 このように、近代の日本には、中国の知識階級があまりにも懐疑的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。
独断論者も懐疑論者はともに誤っている。その誤りが世にはびこれば、社会的な災害が引き起こされる。

バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル「ラッセル教育論」

2016/07/22

自己愛に追従と悪

 自分を大いに愛していると公言する人を世間では大目に見ている。しかし、それからいろいろ困ったことも生じ、自分自身を偏見なく正しく判断できなくなるのは重大だ。自己愛に対して盲目になる。そのために追従者に広い活躍の場が与えられる。自己愛が自分にとりいるための格好な足がかりになる。自分が何を思い欲しているか、自分だけでなく他人までが証人となることを許す。へつわられるのが好きだと非難されている人は、相当に自己愛の強い。自分を好意的な目で見るために、自分にはあらゆる特性を欲したり、現にあると思う。特性があるように欲するのは別に不都合ではない。しかし、現にあると思う方は危険であり、大いに警戒を必要とする。追従者は善を敵にする危険がある。追従者は自分自身をあざむき、何が善で何が悪であるかに気が付かなく、善は放置され、悪はまったく矯正できない。自らは本当大きな過ちは見て見ぬふりをするきずかないふりをするが、小さなうわべのことで何か欠陥を見つけるとえらい勢いて襲いかかる。
 悪は、もし追従者がとくに身分の低い者卑しい者だけにまつわるのであれば、恐れるに足らず容易に警戒できる。しかし、名誉心の強い性格の人、有為の人、穏当な人ほど追従者を受け入れ、ひとたびとりつかれると育てやすい。追従へのへつらいも同じで、その日暮らしの人、無名の人、無能の人にとりつかず、名門の家や重大問題、さらに王国や皇帝にとりついて、つまずかせ倒したりする。追従が友愛を傷つけたり疑念を生じないように探し出すことは小事ではなく、目配りで足りない。
 しらみは臨終の人の体を去っていきます。栄養分の人間の血が死によって途絶えるためである。追従者たちも、乾いたもの、冷えて固くなったものには近づきません。名声や権力のあるところに自分を肥やす。事情が変わるとたちまち姿を消す。
 しかし、そこに至るまで待てない。その経験などは無益というより有害で、危険である。まさに友を必要としている時に、真の友はいない。不確かな友、偽りの人に代えて、良き友、信頼できる友を持てない。友は貨幣と同じで、本物かにせ物を判定するのは手遅れで、必要になる前に、本物かにせ物かを定めるべきである。被害ではじめて気がつくのではなく、被害に合わないように追従者を知り見破るべきである。猛毒な毒薬を知るために一服して、毒薬と知った時には命を落として身を滅ぼす。友人は気持ちのいいものでもなく、立派なな有益だけのものではない。友愛が尊いものなるのは、辛辣や厳しいからでなく、立派さ尊さが心よく慕われやすさである。

プルタルコス「似て非なる友について」

兵隊募集の本望

   兵備を設けるにはまず歩兵隊を編制するのが第一である。而してその兵員は領分から農民を集めるのが一番良い趣向である。しかしこれを集めるに至っては、深く注意をしなければならない。地方役人などがただ役向き一つ通りで募集したくらいでは、なかなか立派な兵隊を選ぶことができない。
 それには京都からの適任の人にこの募集方を命じられて領土内へ派遣する。一般の領民を各所に招集して能く今日の時勢を説き含める。募集の趣旨を会得させて、この応募は全く領民の義務であると、自ら進んで出るようにせねばならない。その御用を不肖ながら何卒私へ仰せつかるように願いたい。いかにも粉骨砕身して必ず相応の人を連れて来て兵備のお設けが速やかに立ち、各藩を凌駕するような立派な兵隊のできまするように致しますと不遠慮に言上した。
 もっとも自分の考えでは自分も田舎の農民から駆け出すほどの事だから、少し誘導したならば続々望む人があろうと見込みをつけてていた。さらに言葉をていねいに反復説愉した。一体、各々の量見では今日の時勢を何と心得ているか。世の中はいつまでも波風たたぬ太平無事ではないぞ、今にも戦がどこから始まる。己れは昔から百姓であると安心してはいられぬ。それゆえ血気壮な手前どもは今のうちに奉公を願ってご領主のためには働いたら、器量次第では立身功名のできる世の中である。土臭い百姓で生涯を終わらんよりは、一番奮発してでるがよい。深切に話したり、また厳格に諭したり、手を代え品を代えて感動するように色々と工夫凝らした。
 おれはこれまで一橋の家来のようん普通一般の食録を貪って無事に休んでいる役人とは大きな間違いである。事と品によっては荘屋の十人や十五人を斬り殺す事は何とも思わぬから、各方においても余りぐずぐずするとそのままには決して差置かれぬ。今の時勢を何と思うているのか。代官であろうが荘屋であろうが毛頭容赦はしない。成敗とともにこの一身を以って当る所存でいる。
 その後追々募集の人数が各地から集まって来着するから、それを訓練するために、軍制局において種々の評議をする。その大隊長は洋式の兵制を一通り心得ているが、指揮役などに乏しきゆえ、かれこれと人繰りをして、いささかの兵制の組み立てができた。

渋沢 栄一自伝「雨夜譚(あまよがたり)」

2016/07/21

誤った日清戦争

   誤ったのは、十年の西南戦争と、今度の朝鮮征伐さ。しかし10年の時は、まだ善かった。あれで、かなったと言いものもまだ無かったが、今度は、皆がそう言って来るようだ。どちらも勝ったものだから、実にいけない。もとよりドンと言って明らかな事もなし、づるづるだが、どうせ、これでいいと思う高慢が皆いけないのだ。 政府も人民も悪いんだ。人民がそう政府ばかり頼んで責めると言うが、間違いなのだ。わしはもと西洋人が言った七年一変の説を信じているんだ。1877(明治10)年の西南戦争さ。伊藤さんの朝鮮征伐でも、それはただ伊藤の時の結果に過ぎないのだ。
 こないだも、張などがやって来て、「今度は陸軍省の方で、大層と丁重にしてくれた。」と言って喜ぶ。私はひどく癇癪に障ったから、『なに、馬鹿だな』と言って、怒ってやった。戦争をして勝つと、チヤンチヤンだとか何かとか言って、居たたじゃないか。先生方だってその仲間だろう。世界に輝かすとか、何とか言っただろう。それで、今では支那支那という。そんな事で何があてになるものか。
  朝鮮を独立させると言って、天子から立派なお言葉が出たじゃないか。それで、今じゃ、どうしたんだ。日清戦争の勅文が出て、途中でこれを聞いて、びっくりした。決死の徒が6人来た。もし戦わなければ大臣を刺殺すと迫った。その連中は、今では大変閉口しているよ。伍長以下の連中が段々と上のものを脅迫したのさ。
 維新の大業だって、先ず50年さ。どうして、そのように早くできるものか。憲法などというのは、上の奴の圧制を抑えるのために下から言い出したものさ。それを役人等が自分の都合に真似をした杖事さ。 君らだって親仁の野蛮な血が半分残っている。それからまた半分残る。野蛮と文明の間の子だよ。日本人の嫉妬が強いのは、どうしても国が小さいからさ。それに、どの藩でも、家柄が決まっていて、功を立て立て大に出世するという事は無かった習慣だからね。何でも、誰かが仕たのか分からないようにして、人が言えばどぼけてしまうのさ。
  主義だの、道だの言って、ただそればかりだと、極めることしは極嫌いです。道と言っても大道あり、小道もあり、上に上がありばかり、その一つを取って、他を排除するのはということは不断から決してなしません。人が来て、いろいろとやかましく言うばかりと『そう言うこともあろうかな』と言って置いて、争わない。そして後々でよくよく考えて、色々に比較して見ると、上に上がると思って、まことに愉快です。研究というものは、死んで初めて止むものでそれまでは苦学です。一日でも止めると言うことはありません。

勝海舟「海舟座談」