古川 正崇
人間の迷いは実にたくさんありますが、死に対するほど、それが深刻で悟りきれないものはないと思います。これだけはいくら他人の話を聞いても、本を読んでも結局は自分ひとりの胸に起こる感情だからです。
私も軍隊に入る時は、それは決死の覚悟で航空隊を志願したのですが、日と共にその悲壮な、いわば自分で自分の興奮におぼれているような、そんな感情がなくなってきて、やはり生きているのは何にも増して換へ難いものと思うようになって来たのです。
その半面、死ぬ時が来たら、それや誰だって死ねるさ、という気持ちを心のの奥に常に持つようになりました。但し本当に死ねるとしいっていても、いざそれに直面すると心の動揺はどうしてもまぬがれる事はできません。
私の立場を偽りなく申せば、この事なのです。私達は台湾に進出の命令を受けてジャカルタを出ました。いよいよ死なねばならぬ、そう思うと戦にのぞむ湧き上がる心より、何か、死にたくない気持ちの方が強かったりするのです。わざわざジャワから沖縄まで死ぬための旅を続けなければならない、その事が苦痛にも思えるのです。
戦死する日も迫って、私の短い半生を振り返ると、やはり何か寂しさを禁じ得ない。死という事は日本人にとっては、そう大した問題ではない。その場に直面すると誰もが、そこには不平もなしに飛び込んでゆけるものだ。
生きるという事は、何気なしに生きていることが多いが、やはり尊い。何時かは死ぬに決まっている人間が、常に生に執着を持つということはいわゆる自然の妙理である。神の大きいお恵みがその処にあらわれている。
子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟りきった無邪気さである。そして、その道を求める者は悩んでいる。死ぬために指揮所から出て行く搭乗員、それは実際に神の無邪気さである。
(1945年5月29日沖縄で戦死)