石川 正夫
1944(昭和19年)7月10日、サイパン島のマッピ山の断崖から飛び降りるのを米軍のカメラに撮られ、人々を絶句させる。自殺をやめさそうと威嚇射撃をしたが駄目であった。平和観音が立っている。「バンザイ岬」と呼ぶ。「七国報国」の覚悟から日本兵の死体4301体は壮絶無惨なり。司令官の洞窟は観光コースになっている。南雲中将の自決遺体は発見されない。旗は切り裂き、分け合った。地獄谷に集まり3000人が突撃する。兵士の屍が続く。米軍は血の海岸と名付けた。
テニアン島の邦人約13000人、朝鮮人2800人、70%は沖縄出身者である。日本軍は合わせて8100名である。米軍は24526発を撃ちこむ。テニアン港の反対側に上陸し、まんまと策にかかる。照明弾を撃ち上げ真昼のごとく照らし出される。9時間で全員が砕ける。アギガシ島は孤島、奇跡的に生き残る。アッツ島は、山崎保代陸軍大佐ら1943(昭和18)年11月25日に玉砕する。マキン、タワラ両島は全滅する。1944(昭和19年)2月26日クェゼリン、ルオット島は玉砕する。皇軍の真髄を発揮と報道する。竹槍を振りかざして無惨な死をとげた多くの市民の死によって戦後は作られた。
天皇は記者団に1975(昭和50)年に「最も重要な出来事は皇后と共に行った訪欧であり来るべき訪米です。一番の最低の出来事は先の大戦です。」と答える。カーチス・E・ルメイ少将は、東京全滅皆殺し作戦を立て、1945(昭和20)年3月10日に10万人が生きながら火焼ぶりとなる。広島に原爆を落とした指揮官ティベッツ大佐のエノラ・ゲイ号はお母さんの名前である。長崎はボックス・カーと名付けられた。
テニアンでは大きな穴を掘り、トラックで日本兵の死体を運んで来ては投げ込んで何千人を集めた。バンザイ岬の虹が見える。「あれは仏様の涙です。」という6万3000人余りの子孫の墓標である。現在は強大な要塞として改造される。
1978年(昭和53)年3月29日、テニアン島の断崖に「鎮魂の不戦之碑」の除幕式をする。太平洋下に、空爆及び砲射撃で山の形が変わるほど撃ち上げて、米軍は上陸した。戦車、火焔放射器で焼きたてられた将校、在留、邦人の市民が、手榴弾で自決し、身を海に投じた場所である。死体の上に落ちて助かった人もいる。多くの人が自殺した場所に碑が建てられる。邦人の市民は3500人、守備隊9000人が全滅した。朝鮮人やチャラモ族も同じ運命に合う。
1944(昭和19)年にB29八十機は東京を爆撃する。軍部は原子爆弾エノラ・ゲイ号の発信基地であるガダルカナルからの退去を、転進という言葉で糊塗しようとした。1944(昭和19)年6月15日サイパン島に米軍が上陸する。誤認と惨敗の責任を取り東条内閣が辞職する。
「我身を以って太平洋の防波堤たらん」が徹底された。戦陣訓により、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし。生きて虜囚の恥を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」と軍国主義を教育する。米軍は、16万7000人の兵力をもっとサイパン島に上陸する。日本軍は4万3000名であった。そのうち在留邦人の市民は1万人いた。サンゴ礁のサイパン島は、米軍上陸以前に、戦争に荒み切った日本兵のために踏み荒らされる。日本に帰るアメリカ丸は沈没され、婦女子5千人余りの市民が全員行方不になる。機動部隊の大群が、海が真っ黒で見えないほど島を取りかこむ。日本兵の死体には真っ黒に蝿が群がり、うじがわく。死の彷徨が始まる。