2016/05/14

広島の消えた日「被爆軍医の証言」

肥田舜太郎

 八月六日に「エノラゲイ」「大芸術家」「ボタノクの車」と名付けられた三機のB29が飛び立ち「ちびっ子」という愛称の原子爆弾を落とす。注射器の空気を押し出し、病人の腕をまさに取ろうとした時、あたりが真っ白にくらんで焔の殺気が顔と腕わふいた。
 両手で眼を覆って、平蜘蛛のようにその場にはいつくばった。真赤な大きな輪が浮かんだ。広島を踏み砕く火柱となって立ちはだかった。眼の下の学校の屋根が、砂塵のつむじ風に軽々とひきはがされた。雨戸の襖が紙くずのように舞い上がって飛び散る。
 私は二畳続きの畳をとんで、奥の仏壇にいやというほど叩きつけられた。その上に大屋根がすぐ落ちた。見よ、広島に虹蓮の火柱が立つ「きの子雲。」自転車で陸軍病院に向かう。それは人間ではない形をしていたが全体が真っ黒で裸だった。ぼろと見たのは人間の生皮。したたり落ちる黒い水は血液だった。男か女か見分けるすべもない。焦げた肉塊。燃え上がる火に追われて人々が次々と川の中にこぼれ落ちた。
 
いきなり後ろから私の名前を呼ばれた。上官の鈴木中佐と知るまで時間がかかった。上半身は焼け焦げとなっていた。戸坂村へ帰り救援に当たれと言われ引き返す。目の前に見る村のようすに正直に度肝をぬかれる。道路や校庭の乾いた土の上には見る限り足の踏み場もない。負傷者の群れは大地に折り重なった肉塊の数である。道に倒れ伏した屍体を乗り越えて、引きもきらず後から後から血みどりの集団が入り込んで来る。村長「なんとかしてつかあさい。どうにもなりまへんで。」まるで電線にとまる雀のように、腕を組んで立ち尽くしている。

 炊き出しするが、二百や三百では土葬もできない。臨時の火葬場を造る。二本の青竹のにわか造りの担架で何百人と運んだ。むすびを握らせたが失敗し、ゆるい粥にに煮かえバケツを堤げて、倒れる負傷者の口にしゃくしで粥を流し込むのは小学生の役である。大人でも正視できぬ恐ろしい人間には子供たちは近よろうとしない。一日百体を焼いて、村中のたき木の貯えが底をつき、遺体は谷間に埋めたと聞いた。街は茫々として焼けつくし、瓦礫の原と化している。その間を人影が列を造って動いていた。残留放射が、この人達の多くの命を奪うことになろうとは誰にもわかっていない。

 二部隊の営庭では、朝の体操の時間に直撃されたに違いない。一様に顔の半面と左腕が焼けている。大きな樹の根元に一人の人間の姿を見た。下ばき一枚の全裸の肌が異様に白い。「外人捕虜」幹の根元に、後ろ手にしばられ投げ出した脚がやたらに長い。軍刀の鯉口で麻縄を断ち切った。司令部といっても天幕一張あるわけでなく、焼けた将校がいるだけである。軍旗が辛うじてその一団の権威を誇示していた。広島陸軍は文字通り消滅している。「死者多数状況不明。」