東野 利夫
1945(昭和20)年5月17日、熊本県小国村上の上空でB29編隊の後尾を日本の戦闘機が攻撃し、パラシュートで米兵が脱出した。一人は自殺し、一人は森にかかり死亡した。そのうち一人は大群衆の市民の中にさらされた。アメリカ留学した経験のある坂本獣医は捕虜をかばう。暴行を加える団長の猟犬が先導して射撃する。生存者5名の捕虜が西部軍司令部へ護送された。捕虜は裏の拘禁所に留置される。ワトキンズ機長だけ東京に送り、残りの4名は合法的処置が必要と思われた。上海では東京無差別爆撃を行った者は、戦時特別重罪人として、3名が死刑、無期懲役が5名となった。3月27日は福岡太刀洗の飛行場がB29に襲われ、小学生32名が死亡する。2名の高級将校には、実験のため片肺摘出術を行うと話合う。ポキポキと肋骨が5・6本切り取られた。片方の肺臓が摘出された。「人間は片肺でも生きられる」と説明している。手術台の上に2人目の捕虜にエーテル麻酔の全身麻酔を充分にかけてある。紫紅色の薄汚れた海綿体のような肺が取り出される。透明な輸血が血液の代用剤とし実験的に使用されて、軍医による抜血で生命を奪われた屍体が乗っている。3人目の捕虜にはエーテル麻酔がかけられる。フレドリック少尉は、胃の手術のために胸骨の先端からヘソまで一直線に開腹され、ボギボギと音をさせ肋骨を何本かが切除される。心臓を停止して5分間心臓マッサージをし、蘇生できるか実験をする。4人目の捕虜は肝臓の手術を行う。腹膜が開かれ。胆のうのそばの大きいのが肝臓で、血の塊であり、メスを入れが縫合はできない。その一部を切除しようとしたが、血圧が下がる。その日も血液を採りガラス瓶に入れる。棺桶に入れられて2・3日間実習室に放置されている。
海軍大将の肩書を持つ百武源吾が九州大学総長に就任して以来、軍の配置下に置かれる。5月25日、一人の捕虜が連行され実習台の上にのぼる。頭部の3分の1が剃毛されて、頭蓋骨が糸のこど口状型に開けられて、顔面神経痛の手術が行われた。切開の箇所が違って、出血多量で致命傷となって息を引き取る。6月2日には、股に切開の傷、他の2名は胸と下腹部にも傷があった。
戦争の悲惨と愚劣により8人の捕虜が死んだ。大森軍医は30代半ばの豪放で崩落な人物であった。外科医の手腕は等しく認める。なぜ吸血鬼に化したのか謎である。6月19日、大森軍医は西部軍司令部の門前で右大腿部に焼夷弾が命中する。一夜にして福岡市の7割が焼けた朝、九州大学に運ばれ、右足切断となった。7月9日、20日間余りの苦痛にさいなまれて、桃太郎さんを口ずさみ、息絶えた。6月20日、B29搭乗員8人は処刑される。8月15日には油山で17名が処刑される。
1945(昭和20)年8月15日、日本は無条件降伏し、戦死者204万人、民間市民110万人、空爆による死亡20万人、被災都市98、焼失家屋140万戸であった。ワトキンズ機長は8月17日に釈放されていることが大本営から判明した。
敗戦と同時に隠べい工作の指揮に乗り出した。関係書類は一括消去する。8人が原爆で死亡、31名が飛行機墜落、全員死亡と工作する。1946(昭和21)年7月12日連合軍から九州大学教授8名に逮捕命令がでる。石村教授はベルトで首を吊って死んだ。鬼才と呼ばれる存在であった。
54歳の小間使いの証言では、2つの遺体の首が切断され、腹は6寸に切開されていた。肝臓の人食の捜索がされる。「九大生体解剖事件」をいやがうえにも猟奇的な残虐的な高位として、人々を驚かせた事件であった。肝臓を食べた点を大見出しに扱う。西部軍の偕行社病院での宴会で肝臓料理が出た事実がある。醤油で煮てあった豚の肝臓の方がより薄い色をしていたらしく、味では区別がつかなかった。
1948(昭和23年)8月27日に判決れた。絞首刑は西部軍元司令官の横山勇、参謀大佐の加藤直吉である。九州大学関係では、高須太郎、広岡健三、森岡良雄が終身刑、千田加孝、平光教授が重労働25年の刑をを受ける。平光教授が巣鴨の拘置所を出たのは、1955(昭和30)11月27日で、約9年6ケ月の獄中生活であった。B29搭乗員を生体実験で殺害したのは、中央からの指示で「適宜の処置」を部下が誤解していたことから生じた。