2016/05/31

オバマ米国大統領の広島原爆演説

Barack Hussein Obama II 

71年前の明るく晴れわたった朝、空から死が降ってきて世界は一変しました。閃光と炎の壁によって町が破壊され、人類が自らを破滅させる手段を手にしたことがはっきりと示されました。
 私たちはなぜ、ここ広島を訪れるのでしょうか。それほど遠くない過去に解き放たれた、恐ろしい力についてじっくりと考えるためです。10万人を超える日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮半島出身の人々、12人の米国人捕虜など、亡くなった方々を悼むためです。こうした犠牲者の魂は私たちに語りかけます。彼らは私たちに内省を求め、私たちが何者であるか、そして私たちがどのような人間になるかについて考えるよう促します。
 広島を特別な場所にしているのは、戦争という事実ではありません。古代の遺物を見れば、人類の誕生とともに暴力的な紛争も生まれたことが分かります。人類の初期の祖先たちは、火打ち石から刃物を、木からやりを作ることを覚え、こうした道具を狩猟だけでなく、人間を攻撃するためにも使いました。どの大陸においても、原因が穀物の不足か、金塊を求めてか、強い愛国心か、熱心な信仰心かにかかわらず、文明の歴史は戦争で満たされています。帝国は盛衰し、人々は隷属させられたり解放されたりしました。その節目節目で、罪のない人々が苦しみ、無数の人々が犠牲となりましたが、その名前は時間の経過とともに忘れ去られました。
 広島、長崎で残酷な終結を迎えたあの世界大戦は、世界で最も豊かで最も力を持つ国同士の戦いでした。これらの国々の文明により、世界は素晴らしい都市と見事な芸術を得ることができました。これらの国々から生まれた思想家たちは、正義と調和と真実の思想を唱道しました。しかし、この戦争を生んだのは、最も素朴な部族の間で紛争の原因となったものと同じ、支配したいという基本的な本能でした。古くから繰り返されてきたことが、新たな制約を受けることなく、新たな能力によって増幅されました。わずか数年の間に、およそ6000万人の人々が亡くなることになりました。子どもを含む、私たちと同じ人々が弾丸を浴び、殴られ、行進させられ、爆撃され、投獄され、飢え、ガス室に送られて死んでいったのです。
 世界には、この悲劇を記録する場所がたくさんあります。勇気と英雄的な行為の物語を伝える記念碑、言葉では言い表せない悪行を思い起こさせる墓地や誰もいない収容所などです。しかし、空に立ち上るキノコ雲の映像の中に、私たちは、人間が抱える根本的な矛盾を非常にはっきりと思い起こすことができます。すなわち、人間の種として特徴付ける、まさにその火花、つまり私たちの思想、想像力、言語、道具を作る能力、人間を自然から引き離し、自分の思いどおりに自然を変える能力が、比類ない破壊をもたらす力を私たちに与えたのです。
 物質的進歩や社会的革新によって、この真実が見えなくなることはどれほどあるでしょうか。より大きな大義の名の下に、暴力を正当化する術を身に付けることは非常に容易です。全ての偉大な宗教は、愛と平和と正義に至る道を約束します。しかし、いかなる宗教にも、信仰を殺人の許可と考える信者がいます。国家というものは、自らを犠牲にして協力し、素晴らしい偉業を成し遂げるために人々を団結させる物語を語って生まれます。しかし、その同じ物語が、自分たちと異なる人々を弾圧し、人間性を奪うために何度も使われてきました。
 科学によって人間は、海を越えて通信し、雲の上を飛び、病を治し、宇宙を理解することができるようになりました。しかし、こうした同じ発見を、これまで以上に効率的な殺人マシンに転用することもできます。
 現代の戦争はこの真実を教えてくれます。広島はこの真実を教えてくれます。人間社会に同等の進歩がないまま技術が進歩すれば、私たちは破滅するでしょう。原子の分裂を可能にした科学の革命には、倫理的な革命も必要なのです。
 だからこそ私たちは、この場所を訪れるのです。この町の中心に立ち、勇気を奮い起こして原爆が投下された瞬間を想像してみるのです。目にしている光景に当惑した子どもたちの恐怖を感じてみるのです。 声なき叫び声に耳を傾けるのです。私たちは、あの恐ろしい戦争、それ以前に起きた戦争、そしてこれから起こるであろう戦争の犠牲になった罪のない人々のことを忘れてはいません。
 単なる言葉では、このような苦しみを伝えることはできません。しかし私たちは歴史を真っ向から見据え、このような苦しみが二度と起きないようにするために、どのように行動を変えればいいのかを考える責任を共有しています。いつの日か、証人としての被爆者の声を聞くことがかなわなくなる日が来ます。けれども1945年8月6日の朝の記憶が薄れることがあってはなりません。この記憶のおかげで、私たちは現状を変えなければならないという気持ちになり、私たちの倫理的想像力に火がつくのです。そして私たちは変わることができるのです。
 あの運命の日以降、私たちは希望に向かう選択をしてきました。日米両国は同盟を結んだだけでなく友情も育み、戦争を通じて得るものよりはるかに大きなものを国民のために勝ち取りました。欧州諸国は、戦場の代わりに、通商と民主主義の絆を通した連合を築きました。抑圧された人々や国々は解放を勝ち取りました。国際社会は、戦争の回避や、核兵器の制限、縮小、最終的には廃絶につながる機関や条約をつくりました。
 しかし、国家間の全ての侵略行為や、今日世界で目の当たりにする全てのテロ、腐敗、残虐行為、抑圧は、私たちの仕事に終わりがないことを物語っています。人間が悪を行う能力をなくすことはできないかもしれません。ですから私たちがつくり上げる国家や同盟は、自らを防衛する手段を持つ必要があります。しかし私自身の国と同様、核を保有する国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければなりません。
 私が生きている間に、この目標を実現することはできないかもしれません。しかし粘り強い努力によって、大惨事が起きる可能性を低くすることができます。保有する核の根絶につながる道を示すことができます。核の拡散を止め、大きな破壊力を持つ物質が狂信者の手に渡らないようにすることができます。
 しかし、これだけでは不十分です。なぜなら今日世界を見渡せば、粗雑なライフルやたる爆弾さえも、恐ろしいほど大きな規模での暴力を可能にするからです。戦争自体に対する私たちの考え方も変えるべきです。そして外交を通じて紛争を回避し、始まった紛争を終結させるために努力すべきです。相互依存の高まりを、暴力的な争いではなく平和的な協力を生むものであると理解し、それぞれの国を破壊能力ではなく、構築する能力によって定義すべきです。
 とりわけ、私たちは人類の一員としての相互の結び付きについて再考すべきです。これも人類を他の種と区別する要素だからです。私たちは、遺伝子コードによって、過去の過ちを繰り返すよう定められているわけではありません。私たちは学ぶことができます。選択することができます。子どもたちに異なる物語、つまり共通の人間性を伝える物語であり、戦争の可能性を低下させ、残虐行為を受け入れ難くするような物語を話すことができます。
 私たちは、こうした物語を被爆者の方々に見てとることができます。原爆を投下したパイロットを許した女性がいます。本当に憎んでいたのは戦争そのものであることに気づいたからです。この地で命を落とした米国人の遺族を探し出した男性がいます。彼らが失ったものは自分が失ったものと同じだと信じたからです。私の国の物語は簡潔な言葉で始まりました。「万人は平等に創られ、また生命、自由および幸福追求を含む不可譲(ふかじょう)の権利を、創造主から与えられている」というものです。こうした理想を実現することは、国内においても、自国の市民の間でも決して容易ではありません。
 しかし、この理想に忠実であろうと取り組む価値はあります。これは実現に向けて努力すべき理想であり、この理想は大陸や大洋を越えます。全ての人が持つ、減じることのできない価値。いかなる命も貴重だという主張。私たちは、人類というひとつの家族の一員であるという基本的で必要な概念。これこそ私たちが皆、語らなければならない物語です。
 だからこそ、人は広島を訪れるのです。そして大切に思う人々のことを思い浮かべます。朝一番に見せる子どもの笑顔。食卓でそっと触れる伴侶の手の優しさ。ホッとさせてくれる親の抱擁。こうしたことを考えるとき、私たちはこの同じ貴重な瞬間が71年前、ここにもあったことを知ることができます。犠牲となった方々は、私たちと同じです。普通の人々にはこれが分かるでしょう。彼らはこれ以上戦争を望んでいません。科学の感嘆すべき力を、人の命を奪うのではなく、生活を向上させるために使ってほしいと思っています。
 国家が選択を行うとき、指導者が行う選択がこの分かりやすい良識を反映するものであるとき、広島の教訓が生かされることになります。
 この地で世界は永遠に変わりました。しかし、今日この町に住む子どもたちは平和な中で一日を過ごします。なんと素晴らしいことでしょう。これは守る価値があることであり、全ての子どもに与える価値があることです。こうした未来を私たちは選ぶことができます。そしてその未来において、広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たち自身が倫理的に目覚めることの始まりとして知られるようになるでしょう。

2016年5月27日(米国大使館)





2016/05/30

死の覚悟

古川 正崇

 人間の迷いは実にたくさんありますが、死に対するほど、それが深刻で悟りきれないものはないと思います。これだけはいくら他人の話を聞いても、本を読んでも結局は自分ひとりの胸に起こる感情だからです。
 私も軍隊に入る時は、それは決死の覚悟で航空隊を志願したのですが、日と共にその悲壮な、いわば自分で自分の興奮におぼれているような、そんな感情がなくなってきて、やはり生きているのは何にも増して換へ難いものと思うようになって来たのです。
 その半面、死ぬ時が来たら、それや誰だって死ねるさ、という気持ちを心のの奥に常に持つようになりました。但し本当に死ねるとしいっていても、いざそれに直面すると心の動揺はどうしてもまぬがれる事はできません。
 私の立場を偽りなく申せば、この事なのです。私達は台湾に進出の命令を受けてジャカルタを出ました。いよいよ死なねばならぬ、そう思うと戦にのぞむ湧き上がる心より、何か、死にたくない気持ちの方が強かったりするのです。わざわざジャワから沖縄まで死ぬための旅を続けなければならない、その事が苦痛にも思えるのです。
 戦死する日も迫って、私の短い半生を振り返ると、やはり何か寂しさを禁じ得ない。死という事は日本人にとっては、そう大した問題ではない。その場に直面すると誰もが、そこには不平もなしに飛び込んでゆけるものだ。
 生きるという事は、何気なしに生きていることが多いが、やはり尊い。何時かは死ぬに決まっている人間が、常に生に執着を持つということはいわゆる自然の妙理である。神の大きいお恵みがその処にあらわれている。
 子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟りきった無邪気さである。そして、その道を求める者は悩んでいる。死ぬために指揮所から出て行く搭乗員、それは実際に神の無邪気さである。
(1945年5月29日沖縄で戦死)
 

2016/05/24

戦争の罪を問う

カール・ヤスパース

 今一つの相違は苦難のあり方にある。苦難はわれわれすべてに共通だとはいえ、その個々の現れ方には量・質とともに甚だしい相違がある。近親や友人はあるいは死亡し、あるいは消息を絶っている。住居は瓦礫と仮し、財産は破壊された。なるほど誰しも心配ごとがあり少なからず窮屈な思いもすれば、物的な苦悩もある。しかしその苦悩と損失とが前線の戦いで生じたのと、故国で生じたのと、政治収容所で生じたのでは、全く話が別である。本人が秘密警察に睨まれたのと、びくびくしながらも政権を利用して甘い汁を吸っていたのでは、話がまるで違う。ほとんどすべての人が親友や近親を失った。しかしどういう失い方をしたか、前線の戦いで失ったか、爆撃で失ったか、政治収容所で失ったかナチス政権の大量虐殺で失ったか、ということによって生じる内面的態度に非常な隔たりがある。
 
 幾百万の傷痍軍人がおのれの生活形式を求めている。幾十万の人間が政治犯収容所から救い出された。幾百万人が強制立ち退きをくらって放浪させられている。男子の大部分は捕虜収容所の生活を体験し、お互いに著しく相反した経験をしてきた。多くの人間が人間的なものの限界に突き当たって、帰還した後も現実に見てきたものを忘れかねている。
 ナチズムの打破によって従来の生活軌道から置いたてを食らった者のり数は知れない。苦難は質的に見てさまざまである。大部分の人にとって、本当に理解できるのは自分の苦悩だけである。誰でも大きな損失な苦悩は何かの犠牲だと解釈する傾向がある。しかしこれが何これが何のための犠牲であったかの解釈に至っては根本的な相違があり、この相違は人間を区別する一応の目安となる。

 とはいえ、こうした犠牲は常にに部分的な成功を見るにとどまっている。われわれは皆、自分を正当づけようとする傾向があり、自分に敵対するように感じられる力に対しては、価値判断か道義的弾劾かによって攻撃を加えようとする傾向にある。今日、われわれは、いつにもまして、鋭い自己検討を行わなければならない。われわれがはっきりと知っておきたいのは次のことである。すなわち、世の動きのなかでは、常に、生き残る者に正しい道徳があるように感じられる。成功が正しさを証明してくれるように思われる。時代の波に乗った人は正義人道の心理のもとに立った気になっている。挫折する人々、力のない人々、時限によって踏みにじられる人々が事物の盲目な動きから受ける深刻な不公正は、この点にあるのである。
 

2016/05/23

悲惨なボート系難民と陸地系難民

スーチェン・チャン

 政府機関、ボラーグや民間市民達が、やっとベトナム戦争による難民問題が解決されたと思うやいなや、より大規模で多く頻発する悲惨な大量出国が発生した。1978(昭和43)年から到来し始めたさらに混声の難民の第二波は、ベトナムからのボート系難民とカンプチアやラオスからの陸地系難民に分類できる。
 全体的に、彼らは第一波と比較して、より貧困で、より低学歴で、より田舎風で、よりさまざまに異なった民族の市民達であった。ベトナムからの少数派民族の中国人、カンプジアジン、低地帯のラオ族、山岳地帯のモン族とその他の少数民族から構成されていた。カトリック教徒は少なく、仏教徒やアニミズム信奉者が多かった。
 1975(昭和41)年以降の難民の流出の状況は、ベトナム、カンプチア、ラオスにおける新たな事態を反映した。それは30年間の戦争行為の後遺症だけでなく、共産主義政府が権力を持つようになり、何十万からおそらく何百万人に達する健常者であった市民の殺害だけでなく、都市が破壊され、森林がはげ山化して、水源が汚染して、無数の不発の地雷が放置されたからである。直面する経済上と環境上の復興の驚くべき業務があるにも関わらず、新しいベトナムの支配者達は自国からのブルジョア階級の排除を優先した、
 それで真っ先に、その中でも何世紀にもわたり居住していた何千人もの中国人の小規模な商人家族を排斥した。政府は彼らの商売、中国人学校、中国系新聞社を閉鎖して、彼らの財産を没収して、公務員の地位から追放したり、特定の職業への関与を禁止したり、登録を強制し、食料の配給量を減少した。

ベトナムからのボート系難民
 過酷な状況下で生活を継続するのは不可能であり不本意なので、中国系ベトナム人はすべての手段を用いて脱国を試みた。中華人民共和国は彼らの約25万人以上を受け入れた。その他の約50万人は、大海に出るのには不適当で貧弱な設備で難民達を過剰に搭載した小さなボートで脱出した。悲惨なボート系難民の約70%は中国系ベトナム人で、世界中の注目を集めた。彼らは水も燃料も尽き、帯の海賊の犠牲になり、たとえ海岸が見えても、隣国のマレーシア、インドネシア、フィリピン、香港の当局がしばしば上陸を阻止した。ある予測で生命の喪失率は50%以上であった。
 
カンプチアからの陸地系難民
 大量殺戮のポル・ポト時代には、ほとんどのカンプチア人の行動は厳しく管理されていたので、他と比べると少人数しか脱国できなかった。1977(昭和52)年にタイに入国したわずか約2万人のカンプチア人の難民が再定住を待機したが、その後にまもなくしてからその数は増大した。1979(昭和54)年にベトナム軍により樹立された新政府は、移動の自由をより緩和したので、非常に大勢の難民がタイの国境へたどり着いた。

ラオスからの陸地系難民
 ラオスでは共産主義が政権を完全掌握して1年以上にもわたり、モン族を孤立させた。バン・パオ将軍が逃避した時、かれの支持者達はタイに向けて難儀な集団移動を開始して、最終的に約2万5000人が無事にタイに到着した。連峰に撤退したその他の6万500人は、ラオス人の共産主義者はモン族の要塞を取り囲み攻撃するために、投下爆弾、ナパーム弾、毒物を投下した。1979(昭和54)年の末に3000人の難民が、メコン川をわたりタイに入国した。
 低地ラオ族も、数千人がラオス政府より再教育収容所に送還された。国外に退去した低地ラオ族は、タイにおいて他の難民と分離して劣悪収容所に収容され、再定住する資格を剥奪した。本国に戻らないなら、逮捕されて、永久にその収容所を告知した。タイ政府は、彼らを国際的な哀れみの対象とならない経済的難民であると避難した。ラオス全人口の10%に相当する約30万人が流民となった。

2016/05/22

「証言」七三一石井部隊

郡司 陽子

 1945(昭和20)年8月10日ソ連が参戦する。村は混乱と怒号。関東軍第七三一部隊の本部は中空高く拭きあげた紅蓮の火花。千葉県千代田村加茂の石井家は昔は醤油、まゆなど広く商っていた。石井四郎部隊は京都帝大医学部を一番で卒業した有名な軍医である。「丸太」「の担当は石井剛男、動物者の担当は石井三男となる。加茂部隊とは地名から来ている。全村をあげて多くの人を送り出す。
 1938(昭和13)年にハルピンに本部を設置する。弟の話では、手間賃が一日七十銭の時、万翔に行けば一日ご縁になる。希望者は徹底したもので、何台もさかのぼって友人、親戚もビシビシ追求された。ハルピンにいくと千葉版として極秘の任務をする。夜は零下四十度で、暖房は完成していた。関東軍貿易給水部(七三一部隊)の本部を建てる。窓は厚い防弾ガラスで、監獄の様である。責任者の技師が乗り込み、銃を乱射する。「駄目だやり直し」と言われ、作り直す。三度目にようやく「よし」と言われる。生体実験用の丸太を収容する毒別獄舎だと知る。1941(昭和16)年5月8日に筆者は秘密部隊に勤務している主人と結婚して、ハルピンへ旅たつ。本部は鉄格網に高圧電流が流され、異常な警戒態勢で立入禁止となる。退院の口の固さ、清潔すぎる衛生設備である。何となく不安にさせる。日本軍の捕虜となった八路軍(中国共産軍)兵士、ロシア人兵士を「丸太」と予備、一本、二本と呼び、一本、二本と数える。
 ハルピンより三日走り続けて西湖にゆく。十日前に航空機が細菌爆弾を投下し、その効果を測定する。二、三発チフス、赤痢、ペスト菌がつめられて落とされた。防毒衣を着用しサンプルわ採取した。集落人を捕らえて帰り効果を測定する。そのあとその集落人は全員山奥に連行され、自分達で溝を掘らされ、墓穴の前に目隠しをしてひまずかされ、首を切られた。中国側の各紙が突然の伝染病の大流行の結果、膨大な死者が出ていることを大々的に報じた。二、三人で潜入し、川に細菌を混入する。中国側は大騒ぎとなり、その影響の大きさに驚き至急帰隊せよと命じられる。厳格な緘口令か敷かれる。
 覆面トラックから降ろされた「丸太」は、ベニヤ板を背に縛られ、足は鎖で繋がれて、胸には番号を付ける。「丸太」表情もなく抵抗もなかった。隊員達はトラックで百五十メートル避退した。爆撃機は標的の中心の棒をめがけて二十、三十Kgの爆弾を落とした。ドカンと「丸太」の地獄だった。生臭い血の臭いで、気分が悪くなる。記録班は冷静に映画を撮り続けた。全員その場で消毒をし、「口外無用」とする。この実験では爆弾の効果をいかに水平に拡大するかが併せて研究された。「丸太」を一列に縦に並べて、銃弾の貫通実験を行った。焼却場の煙突の煙が出ていると、奥さん達が「今日もやった」とか、「頭の黒いネズミ何匹焼いた」とか言い合った。「丸太」細菌を注射され、細胞単位までばらばらに解剖される。細菌は金魚や鯉のセルロイドのおもちゃ容器に入れて空から舞い降りてくるて聞く。中庭の周りを土のうを背中にくくりつけられた「丸太」が、食事も睡眠も与えられないで走らされている光景を見る。何日生きているかを実験する。
 寧案はソ連満州の最前線である。中国人、ロシア人の態度を変わってくる。1945(昭和20)年8月9日、照明弾が浮き上がって見える。「負けたらしい。ダメだ。」流言飛語につつまれる。動物は薬殺され、一切のものを破棄せよと命じられるる朝鮮方面に疎開する貨車に乗り込む時、突然「部隊に向かって黙祷」と号令が下った。秒読みが切れてドカーンドカーンと爆発し、黒煙、赤い火が吹き出す。動物の鳴き声がし、「丸太」も一緒に吹っ飛んだと思った。特別列車はスッポリとシートをかぶせられ、安全が保証されていた。引揚船は軍艦で、故郷に帰り、石井家に呼ばれて、三兄弟に仕える。
 自宅で石井部隊長はマッカーサーと秘密交渉をする。ソ連の戦犯よりはアメリカの交渉を選んだ。技師長は1950(昭和25)年に加茂で結核により亡くなった。1955(昭和30)年には剛男さんも神戸で亡くなった。隊長が亡くなったのは、1959(昭和34)年のことであった。

2016/05/19

玉砕島テニアン (戦争と人間の記録)

石川 正夫

   1944(昭和19年)7月10日、サイパン島のマッピ山の断崖から飛び降りるのを米軍のカメラに撮られ、人々を絶句させる。自殺をやめさそうと威嚇射撃をしたが駄目であった。平和観音が立っている。「バンザイ岬」と呼ぶ。「七国報国」の覚悟から日本兵の死体4301体は壮絶無惨なり。司令官の洞窟は観光コースになっている。南雲中将の自決遺体は発見されない。旗は切り裂き、分け合った。地獄谷に集まり3000人が突撃する。兵士の屍が続く。米軍は血の海岸と名付けた。
 テニアン島の邦人約13000人、朝鮮人2800人、70%は沖縄出身者である。日本軍は合わせて8100名である。米軍は24526発を撃ちこむ。テニアン港の反対側に上陸し、まんまと策にかかる。照明弾を撃ち上げ真昼のごとく照らし出される。9時間で全員が砕ける。アギガシ島は孤島、奇跡的に生き残る。アッツ島は、山崎保代陸軍大佐ら1943(昭和18)年11月25日に玉砕する。マキン、タワラ両島は全滅する。1944(昭和19年)2月26日クェゼリン、ルオット島は玉砕する。皇軍の真髄を発揮と報道する。竹槍を振りかざして無惨な死をとげた多くの市民の死によって戦後は作られた。
 天皇は記者団に1975(昭和50)年に「最も重要な出来事は皇后と共に行った訪欧であり来るべき訪米です。一番の最低の出来事は先の大戦です。」と答える。カーチス・E・ルメイ少将は、東京全滅皆殺し作戦を立て、1945(昭和20)年3月10日に10万人が生きながら火焼ぶりとなる。広島に原爆を落とした指揮官ティベッツ大佐のエノラ・ゲイ号はお母さんの名前である。長崎はボックス・カーと名付けられた。
 テニアンでは大きな穴を掘り、トラックで日本兵の死体を運んで来ては投げ込んで何千人を集めた。バンザイ岬の虹が見える。「あれは仏様の涙です。」という6万3000人余りの子孫の墓標である。現在は強大な要塞として改造される。
 1978年(昭和53)年3月29日、テニアン島の断崖に「鎮魂の不戦之碑」の除幕式をする。太平洋下に、空爆及び砲射撃で山の形が変わるほど撃ち上げて、米軍は上陸した。戦車、火焔放射器で焼きたてられた将校、在留、邦人の市民が、手榴弾で自決し、身を海に投じた場所である。死体の上に落ちて助かった人もいる。多くの人が自殺した場所に碑が建てられる。邦人の市民は3500人、守備隊9000人が全滅した。朝鮮人やチャラモ族も同じ運命に合う。
  1944(昭和19)年にB29八十機は東京を爆撃する。軍部は原子爆弾エノラ・ゲイ号の発信基地であるガダルカナルからの退去を、転進という言葉で糊塗しようとした。1944(昭和19)年6月15日サイパン島に米軍が上陸する。誤認と惨敗の責任を取り東条内閣が辞職する。
 「我身を以って太平洋の防波堤たらん」が徹底された。戦陣訓により、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふべし。生きて虜囚の恥を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」と軍国主義を教育する。米軍は、16万7000人の兵力をもっとサイパン島に上陸する。日本軍は4万3000名であった。そのうち在留邦人の市民は1万人いた。サンゴ礁のサイパン島は、米軍上陸以前に、戦争に荒み切った日本兵のために踏み荒らされる。日本に帰るアメリカ丸は沈没され、婦女子5千人余りの市民が全員行方不になる。機動部隊の大群が、海が真っ黒で見えないほど島を取りかこむ。日本兵の死体には真っ黒に蝿が群がり、うじがわく。死の彷徨が始まる。

2016/05/17

汚名「九大生体解剖事件」の真相

東野 利夫

1945(昭和20)年5月17日、熊本県小国村上の上空でB29編隊の後尾を日本の戦闘機が攻撃し、パラシュートで米兵が脱出した。一人は自殺し、一人は森にかかり死亡した。そのうち一人は大群衆の市民の中にさらされた。アメリカ留学した経験のある坂本獣医は捕虜をかばう。暴行を加える団長の猟犬が先導して射撃する。生存者5名の捕虜が西部軍司令部へ護送された。捕虜は裏の拘禁所に留置される。ワトキンズ機長だけ東京に送り、残りの4名は合法的処置が必要と思われた。上海では東京無差別爆撃を行った者は、戦時特別重罪人として、3名が死刑、無期懲役が5名となった。3月27日は福岡太刀洗の飛行場がB29に襲われ、小学生32名が死亡する。
 2名の高級将校には、実験のため片肺摘出術を行うと話合う。ポキポキと肋骨が5・6本切り取られた。片方の肺臓が摘出された。「人間は片肺でも生きられる」と説明している。手術台の上に2人目の捕虜にエーテル麻酔の全身麻酔を充分にかけてある。紫紅色の薄汚れた海綿体のような肺が取り出される。透明な輸血が血液の代用剤とし実験的に使用されて、軍医による抜血で生命を奪われた屍体が乗っている。3人目の捕虜にはエーテル麻酔がかけられる。フレドリック少尉は、胃の手術のために胸骨の先端からヘソまで一直線に開腹され、ボギボギと音をさせ肋骨を何本かが切除される。心臓を停止して5分間心臓マッサージをし、蘇生できるか実験をする。4人目の捕虜は肝臓の手術を行う。腹膜が開かれ。胆のうのそばの大きいのが肝臓で、血の塊であり、メスを入れが縫合はできない。その一部を切除しようとしたが、血圧が下がる。その日も血液を採りガラス瓶に入れる。棺桶に入れられて2・3日間実習室に放置されている。
 海軍大将の肩書を持つ百武源吾が九州大学総長に就任して以来、軍の配置下に置かれる。5月25日、一人の捕虜が連行され実習台の上にのぼる。頭部の3分の1が剃毛されて、頭蓋骨が糸のこど口状型に開けられて、顔面神経痛の手術が行われた。切開の箇所が違って、出血多量で致命傷となって息を引き取る。6月2日には、股に切開の傷、他の2名は胸と下腹部にも傷があった。
 戦争の悲惨と愚劣により8人の捕虜が死んだ。大森軍医は30代半ばの豪放で崩落な人物であった。外科医の手腕は等しく認める。なぜ吸血鬼に化したのか謎である。6月19日、大森軍医は西部軍司令部の門前で右大腿部に焼夷弾が命中する。一夜にして福岡市の7割が焼けた朝、九州大学に運ばれ、右足切断となった。7月9日、20日間余りの苦痛にさいなまれて、桃太郎さんを口ずさみ、息絶えた。6月20日、B29搭乗員8人は処刑される。8月15日には油山で17名が処刑される。
 1945(昭和20)年8月15日、日本は無条件降伏し、戦死者204万人、民間市民110万人、空爆による死亡20万人、被災都市98、焼失家屋140万戸であった。ワトキンズ機長は8月17日に釈放されていることが大本営から判明した。
 敗戦と同時に隠べい工作の指揮に乗り出した。関係書類は一括消去する。8人が原爆で死亡、31名が飛行機墜落、全員死亡と工作する。1946(昭和21)年7月12日連合軍から九州大学教授8名に逮捕命令がでる。石村教授はベルトで首を吊って死んだ。鬼才と呼ばれる存在であった。
  54歳の小間使いの証言では、2つの遺体の首が切断され、腹は6寸に切開されていた。肝臓の人食の捜索がされる。「九大生体解剖事件」をいやがうえにも猟奇的な残虐的な高位として、人々を驚かせた事件であった。肝臓を食べた点を大見出しに扱う。西部軍の偕行社病院での宴会で肝臓料理が出た事実がある。醤油で煮てあった豚の肝臓の方がより薄い色をしていたらしく、味では区別がつかなかった。
 1948(昭和23年)8月27日に判決れた。絞首刑は西部軍元司令官の横山勇、参謀大佐の加藤直吉である。九州大学関係では、高須太郎、広岡健三、森岡良雄が終身刑、千田加孝、平光教授が重労働25年の刑をを受ける。平光教授が巣鴨の拘置所を出たのは、1955(昭和30)11月27日で、約9年6ケ月の獄中生活であった。B29搭乗員を生体実験で殺害したのは、中央からの指示で「適宜の処置」を部下が誤解していたことから生じた。

2016/05/15

総員起こし

吉村 昭

 1942(昭和17)年に神戸三菱造船所で竣工された一等潜水艦の浦上丸の中にいた中尉以下の三十三名が殉職した。敵に曳航され、呉海軍工場で修理を受けて、日本連合艦隊に引き渡される。
 1944(昭和44)年8月13日、伊予号は灘由利島で百二名が殉職した。救助者は二名のみである。伊予号の第三十三潜水艦機械室より浸水し、叫び声があがり、電灯が消え排水ポンプが作動停止になる。浮上する望みが断たれ、鼓膜の痛みが強くなる。ハッチを開けて十六名が脱出したが、小西・岡田二名のみが助かった。
 九年目に沈没した遺骨が沈没した遺体の棺が魚の棲家と変わり、アンコ、メバル、鯛、チヌの水族館となる。遺体に強烈な臭気が噴出し、髪も黒々と伸び耳におおいかぶる。爪も一センチ伸びていた。鎖を首に巻いて縊死し男根が突出している。浮揚した白い遺体の皮膚には、発疹の赤い点状が吹き出していた。二度目の事故死は因島で三名の死亡であった。謎の沈没事故は不思議である。総員起こしが二度ともなし。
 多数の将校を乗せた輸送船が沖縄に向かう途中に、アメリカの潜水艦の雷撃を受けて沈没したのである。将校六名と下士官二名が上陸艇で海辺に来て、漁師や市民に救助のため二・三隻を出してくれときた。漁師達が助けに来たと知ると群衆が押し寄せて来て、恐怖を感じた。生存者は中尉一名と兵二百九十八名であった。遺体は五十二体で三隻の上陸用艇に乗ったのは将校ばかりである。手のない水死体が多かったのは、将校が兵士の船にすがる手を次々に切って、将校たちの船が沈まないにしたからである。船にすがる手を切っても新しい手がつかまる。漁師達は手に対する恐怖感で救助をためらった。六十体の焼骨作業をした。五日後に終戦となる。10月下旬の一ヶ月の間に十一体の遺体が網にかかる。三年目に輸送船を引き上げる。船内には七遺体と八台の小型戦車が有った。兵三千人を乗せた輸送船と護衛する水艦艇がアメリカにやられた。戦争の悲劇により海が柩となる。

2016/05/14

広島の消えた日「被爆軍医の証言」

肥田舜太郎

 八月六日に「エノラゲイ」「大芸術家」「ボタノクの車」と名付けられた三機のB29が飛び立ち「ちびっ子」という愛称の原子爆弾を落とす。注射器の空気を押し出し、病人の腕をまさに取ろうとした時、あたりが真っ白にくらんで焔の殺気が顔と腕わふいた。
 両手で眼を覆って、平蜘蛛のようにその場にはいつくばった。真赤な大きな輪が浮かんだ。広島を踏み砕く火柱となって立ちはだかった。眼の下の学校の屋根が、砂塵のつむじ風に軽々とひきはがされた。雨戸の襖が紙くずのように舞い上がって飛び散る。
 私は二畳続きの畳をとんで、奥の仏壇にいやというほど叩きつけられた。その上に大屋根がすぐ落ちた。見よ、広島に虹蓮の火柱が立つ「きの子雲。」自転車で陸軍病院に向かう。それは人間ではない形をしていたが全体が真っ黒で裸だった。ぼろと見たのは人間の生皮。したたり落ちる黒い水は血液だった。男か女か見分けるすべもない。焦げた肉塊。燃え上がる火に追われて人々が次々と川の中にこぼれ落ちた。
 
いきなり後ろから私の名前を呼ばれた。上官の鈴木中佐と知るまで時間がかかった。上半身は焼け焦げとなっていた。戸坂村へ帰り救援に当たれと言われ引き返す。目の前に見る村のようすに正直に度肝をぬかれる。道路や校庭の乾いた土の上には見る限り足の踏み場もない。負傷者の群れは大地に折り重なった肉塊の数である。道に倒れ伏した屍体を乗り越えて、引きもきらず後から後から血みどりの集団が入り込んで来る。村長「なんとかしてつかあさい。どうにもなりまへんで。」まるで電線にとまる雀のように、腕を組んで立ち尽くしている。

 炊き出しするが、二百や三百では土葬もできない。臨時の火葬場を造る。二本の青竹のにわか造りの担架で何百人と運んだ。むすびを握らせたが失敗し、ゆるい粥にに煮かえバケツを堤げて、倒れる負傷者の口にしゃくしで粥を流し込むのは小学生の役である。大人でも正視できぬ恐ろしい人間には子供たちは近よろうとしない。一日百体を焼いて、村中のたき木の貯えが底をつき、遺体は谷間に埋めたと聞いた。街は茫々として焼けつくし、瓦礫の原と化している。その間を人影が列を造って動いていた。残留放射が、この人達の多くの命を奪うことになろうとは誰にもわかっていない。

 二部隊の営庭では、朝の体操の時間に直撃されたに違いない。一様に顔の半面と左腕が焼けている。大きな樹の根元に一人の人間の姿を見た。下ばき一枚の全裸の肌が異様に白い。「外人捕虜」幹の根元に、後ろ手にしばられ投げ出した脚がやたらに長い。軍刀の鯉口で麻縄を断ち切った。司令部といっても天幕一張あるわけでなく、焼けた将校がいるだけである。軍旗が辛うじてその一団の権威を誇示していた。広島陸軍は文字通り消滅している。「死者多数状況不明。」

墓標なき八万人の死者

角田 房子

 満州から避難烈車が東安駅で転覆した。死傷者七百名が出た。原因は駅付近の山積の爆弾を 、軍命令によって爆破したためである。上官の命令は絶対なものである。避難民の命はかえり見られなかった。鉄道に沿って歩き始めた者は、ソ連の攻撃を受けた。実在しないものへの恐怖につぶされて、四十九人が死んだ。
 ソ連参戦の二ヶ月前には、開拓団は放棄と決められていた。関東軍はなぜ開拓民の安全を計る措置わ取らなかったのか。
 満州国の皇帝溥儀皇妃は、首都から逃げる。十三年間政府が置かれた新京の街も、滅亡への坂道をまっしぐらに転落していった。生と死は偶然が決める。朝鮮経由で奇跡的に無事に帰還した開拓団が六つあった。入植後年数が浅いことも一つの原因ではなかったろうか。
 脱出不可能なのは六年以上の古参組である。引き揚げる市民開拓団は二百七十四人もいた。一家族一個だけの荷物を持って、日本軍の総退却は知らずにいた。日本人は敗戦というものを知らない市民であった。満州人は親の代々から反乱戦争に、揉みぬかれて生きてきた。略奪の好機と考えた。県公署警察はすでに引き上げている開拓団の引き上げに馬車三十台を貸与する。満州警察のしかけたワナである。武器を取られた開拓団は、満州人の恨みをまっこうから浴びた。団長の合図で自決場に集まり、泣き叫ぶことなく自決し火を放った。二百七十二人の最後であった。小古河蓼開拓団は、軍の許可がないために乗船できず。三百人が前途を悲観した後であった。
 ナチス・ドイツの強制収容所でもユダヤ人は迫害を受けたが、集団自決の例はない。 「満州へゆけば二十町の地主になれる。」と満州へと宣伝した。帰国してみると彼らの所有地は農地開放の措置として、政府に買い上げられ人手に渡る。引揚者がそにこ割り込む余地はない。

2016/05/12

シラードの証言

レオ・シラード
 アインシュタインの大統領宛の手紙の草案をシラードは書く。この手紙が発端となり、ウラン委員会が発足し原爆開発をする。ルーズベルト大統領に核戦争の予防を覚書をお目にかけた方がよい。大統領死去のニュースを知る。その前に、ボーアの考えは、ソ連も原発を開発するに違いない。そうなると一大核の軍拡競争の時代を迎える。チャーチルは取り上げず、ルーズベルトと会見して秘密協定ををしていた。大統領は聞き手上手で、その秘密協定は以下の通りである。
1. 開発は秘密裏に行い国際管理は退ける。ソ連には知らせず日本に対して使用する。
2. 日本の降伏後も軍事的常業的な利用を開発する。
3. ホーアがソ連に漏らすことのないように彼を監視する。
 トルーマン大統領ではなく、前任者のルーズベルトとチャーチルの間で決定していた。米英中ソ連の大国の争いの場を、原爆の武器でねじ伏せようと政策していた。トルーマンが就任して、一か月にヒトラーが自殺する。
 特殊部隊がテニアン島で投下訓練を始めていた。テラー博士はその後に核を分裂させるのではなく、融合うる時に発生するエネルギーを利用して完成させ「原爆の父」と呼ばれている。
 シラードは反対の請願書の署名を集めていた。日本に降伏の機会を与えることなしに原子爆弾を使用すべきではない。「無警告で軍事施設の周辺に人家が密集した都市」への日本投下を大多数が賛成する。スペイン人が名付けた「死の旅」のニューメキシコ州アラモード砂漠で実験が行われた。シラードは、日本に原爆を投下したのは歴史上最も誤りですと婦人に八月六日付けの手紙を書いた。夫人には彼はいつも「日本人に対して済まないことをしてしまった。」と言っててた。

 戦争が終わるとシラードは核物理学をあっさり捨てた。フェルミンやテラーは数々の栄誉を受け高位の公職を歴任したが、シラードは遂に公職に就くことはなかった。シラードの勧告は、ヒトラーのユダヤ人排斥運動に恨みを抱いていたからだ。ドイツが原爆を使わないために、先にアメリカが原爆を持たなくてはならない重要な要因であった。

西部戦線異常なし

レマルク
ケムメリヒのところに見舞いにゆく。「とても足が痛むのだ。」と顔には死相が出ている。両手はロウの様になり見るに忍ず。煙草をやって看護婦にモルヒネを打ってもらってやる。ミニツレルはケムメリヒの長靴をほしがった。「義足があるよ。僕の長靴をミニツレルへ持って行ってやっても良い。」目がくぼんでもう一、二時間で死にそう。涙が頬を流れ落ちた。軍医を呼びに行って帰ると死んでいた。「この寝台がいるんだ。外は廊下までいっぱいころがっているから。」と軍医は言った。
 班長ヒメルストオスに、皆んな恨みを抱いている。寝小便垂れの二人の青腫れの皮膚を見たら誰にもわかった。前線に出る前の夜に、班長が歌をうたって帰って来た。忍び寄りシーツを頭からかぶせてしまい、その上に一打くらわす。順番にくらわす。軍隊では、いつもお互いに他の者を教育してやらねばいけないと言っていた。自分の言葉が当人に向かって実を結んだ。
 英国の発射は続く。戦線地帯にやって来て、人間が獣になった。フランス軍の信号弾で、真昼の様に明るい赤と青の照明弾が唸り声をあげ、ヒイヒイシュウーという音が一杯で恐ろしい。弾丸が打ち込まれて、砲弾の音の間に、人の叫び声、気味の悪い叫び声が上がった。馬がやられた。ひでえなあ馬を戦争に引っ張りだすなんて。世の中にはねえー爆発火のどこかにも逃げ道はない。砲弾の破片が鉄兜へぶつかる。「毒ガスだ。外の者へ言え。」とカチンスキイ発言の最初の二、三分が生と死の境目になる。野戦病院で毒ガスにおかされた兵士は締め殺される様な苦しみだ。肺が少しずつ崩れてゆく様を見た。しかし、上にも出られぬ。地面そのものが荒れだした。頭の中はガスマスクでガンガン鳴る。墓地は廃墟だ。棺桶と死骸がばらばらと散乱し、死人は二度殺された。蚤が無数にいる。班長のヒムメルストスが前線にやって来る。チヤアデンが「貴様は猪を追っかける猟犬みたいな者で、猪犬だ。」班長は君を戦時裁判所に附するとかけ出した。「五日間の重営倉だ。」「もう戦争にでないで済むじゃないか。」呑気だ。家鴨を取りに入り、ブルドックに唸られたが一匹盗む。
 いよいよ攻勢に出る噂が立つ。学校のそばに、白木の寝棺が二列に高く百個積み重ねてある。「もうちゃんと支度ができてら。」英国軍は砲兵を増加した。弾丸に当るのも偶然なら、助かって来るのも偶然である。ばかにねずみが増え、これは猛烈な合戦の証拠だと言う。躰が大きく死骸を食うねずみ二匹が大きな猫と一匹の犬にかみ殺された。ブランデーが支給される。飲んでも決していい気持ちになれぬ。チーズを銃剣で突き刺すと抜けなくなる。円匙の方がぐさりと切ってしまう。夜中に目を覚ました。地面は鳴動している。砲弾が絶え間なく、つんぼになって来る。犬の尻尾一本も入る隙もない砲火だ。防空壕の入口から逃げて来た鼠の大群が飛び込んで来る。怒鳴り打ちかかってゆく機関銃が火蓋を切った。敵のフランス人の姿も見える。
 僕らは戦うのではなく皆殺しに対して防御するのである。倒れている肉の塊の躰の上に足をすべらし、ぱくりと口を開いた腹の中に足を踏み込んだ。偵察機が現れ二、三分すると散弾と大きな砲弾がぶっ放され、一日に十人も死んだこともある。新兵は何も知らず弾の区別もできず、わけなく殺される。大勢が根こそぎ毒ガスで倒れた。
 毒ガスは、窪んだ穴の中に最も長く停滞していることを皆は知らない。早くマスクを脱いで肺を焼いてしまうことがある。ある塹壕で思いかけずヒムメルストオスにぶっかった。カッとなり「外へ出ろ。」という。阻止砲撃、煙幕砲撃、地雷や毒ガス・タンク・機関銃・手榴弾に世界のあらゆる恐怖が含まれている。第二中隊の百五十人がたった三十二人になった。ヒムメルストオスと仲直りする。炊事当番を命じられる様に取り計らい、将校に食事を食わせる。川を裸で渡り、食パンのカンズメを持って三人は、女の所にゆく。女郎屋の長い列を作って、順番を待つのとは大違いである。休暇が十七日間出る。国の姉が、「ああパウル」と叫んだ。ベルギー全部とフランスの炭鉱地方とロシアから領土を取る。ドイツがなぜ取らねば、いけないのか理由と詳細に述べる。
 ミッテルスが、耳新しいこと伝えてくれた。オントレック先生が隊にいる。昔誰かがフランス語を間違えると鉛筆の先で突いて、震え上がったものだ。習ったフランス語は、約にたたないじゃないか。私を一度落第させたことがある。教師は、そのまま文句を言って慰めた。「国家危急の場合には、生きることを大いに幸福としちょる、大々に鍛えてやらにゃあかん。」と言う。あんな奴わ相手にしてよ!
  ケムメリヒの母親を訪ねる。母親は、身体を震わせてむせび泣く。「あんな子が心で、なぜあなたが生きているのです。」胸に一発弾丸をくらって、すぐその場で戦死したと伝える。本当のことを言ってくださいと言われるも、断じてしゃべるまい。死んだことには変わりない。神にかけてもおっしゃるのですかと言われるも、「何が神様をかけてだ。」神様なんてとうの昔に吹っ飛んでいる。ロシアの捕虜の歩哨に立つ。僕らよりもはるかに人間的である。もうこの人たちはには、戦争は済んで何に対しても興味を失った人間になっている。
 自分の隊を捜したが、誰も知ったものはいない。ある朝どろどろに汚れて帰ってきたカンスキにクロツウが言った。「なんで俺たちロシアへゆくと言う話だる」新品の上着をもらった。破損したものは新品と交換された。あるカイゼルが検閲に来ると言う。済むとはほとんど返品を命じられ、元の古い物が戻された。
 地雷だよ、樹の上に死人が引かかっている。真っ裸である。砲弾穴に入ると、一つの身体がどしんと滑り落ちてくる。気違いのように突き刺した。手はべとべとと血で濡れた。「戦友どうぞ許してくれ。」軍隊手帳に印刷業のデュヴァルを殺したのである。僕の頭はくらくらしてきた。自分は印刷屋になろう。ブロップは膝をやられる。弾丸は僕らを追って来てやられる。野戦病院に入る。軍医がやってきて、傷の中をかき回した。目の前が真っ暗になるくらい痛い。手に砲弾の破片を釣り上げ放り出した。きれいなシーツには虱を背負っていると唸った。看護婦は笑って「虱にもちょっと楽にさせてやらなけりゃ」おしっこのための尿器を受け取った。プロップは熱を出した。出される事になる。僕も検温器をマッチで三十・七度に上げ、一緒に列車から降ろされた。ブロップの具合がよくない。足を切断されていた。

 戦争終了の時が来たら、父親たちは僕らに何を期待するであろう。幾年のあいだ僕らの仕事は人を殺すことであった。志願兵のパウルボイメルも、一九十八年十月に戦死した。司令部の報告は「西武戦線異常なし。報告すべき件なし。」という文句であった。ボイメルは前に伏して、倒れてまるで寝ているように地上にころがっていた。身体をひっくり返してみると、長く苦しんだ形跡はない。こういう最後を遂げることを満足に感じて覚悟の見えた沈着な顔をしていた。

地球平和の市民連盟

はじめに
 戦争により、ベットに横たわり、苦しんでいる市民を見守る事しかできない。
迫りつつある戦争を目前にして、市民の地域と家族における尊厳が失われている。
それぞれの生活が戦争で分離しても、家族や地域の絆を保つのは市民である。
しかし、他人や部外者などから見れば、市民は微かな存在にすぎないであろう。
それぞれの戦争の持つ悲惨な歴史を他人や部外者には、共感できない事にもよる。
世界大戦の戦争から原爆による終止符の犠牲で、多くの市民が辛酸を受けた。
戦争と貴重な経験による平和市民が読み継いだ「思い出の戦争小説」を授けたい。
戦争の荒波を渡ろうとしている市民代弁者として思い出の戦争小説をまとめる。
ささやかな戦争のメッセージである思い出の戦争小説を平和市民に送り捧げたい。
これから人生の羅針盤として思い出の戦争小説を多くの平和市民の心に送りたい。

地球平和の市民連盟 Earth No War Friends (ENWF)
2016年4月25日