2017/03/16

A circumstance of war in which spiritual collaboration was defeated and civil servants became miserable slaves.

 よりよい世界に属するものが陰惨な奴隷の境遇に歎息している。精神的な共同のために存するものが貶められて、地上の共同のために使役されている。地上の共同のために有益なものは、精神にとっては制限を加えるものであり、内的生活にとっては危害を与えるものである。もし友人が盟約の手を差し伸べたならば、各人ず別々にやる場合よりもいっそう大きな仕事がそこから生じるはずである。各人はそれぞれ他人を自由にその精神の赴くがままに振る舞わしめ、また自分の思想を他人と擦り替えたりはしないで、他人に欠けているものがあればそれを補ってやるべきである。そうすれば、各人は他人のうちに生命と滋養とを見いだし、各人はそれぞれ自己のなりうるものになりおおせるであろう。
 ところが、世間では反対にどういう風にやっているか。人は地上の仕事のために他人の指図を待ち、自分の幸福を犠牲にすることを厭わない。識見と世故とを頒ち与え、優しく苦痛を共にしてそれを和らげてやるのが最上のことである。それにしても、友情のうちには常に相手の内的本質に対する敵意が潜んでいる。彼らは友人の欠点をその本質から取り除こうとする。そして自分たちにおいて欠点であるものは、その友人においてもまた欠点であると思っている。このようにして、各人は他人のために自分の特性を捧げなければならず、その挙句は互いに等しくない両者が互いに似寄ったものになる。もっともこれは、頑固な意志が破滅を抑止して、にせ物の友情が不和と和合との間に長く患うとか、または突然に破綻するとかいうことがない場合のことである。
 軟弱な心情の所有者にとっては、友情に附きまとわれるというのは破滅である! 気の毒な人は新しく力強い生活を夢見る。彼は甘い伝達のうちに過ぎ去っていく美しい時の数々を楽しんでいる。そして、空想せられた安逸のうちでどのように精神が自らを費いはたし罪を負うて、ついにはその内的生命があらゆる方面から不具にせられ圧迫せられ、失われていくのに気がつかない。このよにして、よりよき人たちの多くは、自分の本質の大略をもまだほとんど知らないうちに、友人の手によって刈り込まれ、わがものならぬ附加物に附きまとわれつつ徘徊するのである。
フリードリヒ・シュライエルマッハー「独白」