2017/03/01

顔を見せず、よく妖をもって大衆を惑わし、歴年に互いに攻伐する

 倭は韓の東南大海の中にあり、山島によって居をなしている。およそ百余国ある。武帝が韓を滅ぼしてから、使節の漢に通じるものは三十ばかりの国である。
 国は、みな王を称し、世々、統を伝える。その大倭王は邪馬台国におる。楽浪郡の境は、この国を去ること一万二千里、その西北の拘邪韓国を去ること七千余里。その地は、おおむね会稽の福建の東にあり、朱崖・たん耳とたがいに近い。故にその法俗は多く同じである。
 人が死ぬと、喪に復するのを停めて仕事に従うこと十余日、家人は泣き叫び、酒食を進めない。そして親類・友人・縁者たちは、喪にことよせて歌舞し楽をなす。骨を灼いてトし、それで吉凶を決める。行来・渡海には、一人をして髪をくしけずったり沐浴したりせず、肉を食べず、婦人を近づけないようにし、名づけて持衰という。もし旅行中の道中が吉利ならば、そのときは財物を雇するが、もし疾病や害に遭えば、持衰を謹しまなかったとして共にこれを殺す。
 桓・霊の間、倭国が大いに乱れ、かわるがわる互いに攻伐し、歴年、主がいなかった。一女子がおり、名を卑弥呼といった。年が長じても嫁にゆかず、鬼神の道につかえ、よく妖をもって大衆を惑わした。そこで共に立てて王とした。侍婢は千人。顔を見るような者も少ない。ただ、男一人がおり、飲食を給し、辞語を伝え、居処・宮室・楼閣・城柵など、みな兵器をもって守護し、法俗は厳峻である。
「後漢書倭伝」
『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝、隋書倭国伝』