2016/12/26

むごたらしく非人間的な獄門と成敗の死刑

 徳川時代の司法権は各藩がもっている。ーしたがって刑法にも、藩ごとの掟がある。だが、死刑だけは、幕府の許しがないと執行できなかった。その死刑にも階級があった。会津藩の掟でみると、一番軽い死刑は「牢内打首」とよばれた。牢内の刑場で首を斬る。庶民には見せないのである。エリザベス朝のイギリスでも、ロンドン塔の中庭で首を斬られるのは、死罪にたいする軽い扱いであった。ロンドンの塔の死罪で一番軽いのは絞首であったが、徳川時代には、絞首はない。そのかわり一刀で、ばっさりと斬る。ロンドン塔の打ち首は斧で打ちおろされた斧でするのである。エリザベス女王の寵臣エセックス伯爵が彼女自身の判決で処刑されたとき、発止と打ちおろされた首斬人の斧は、三度目にようやく首を落とすことができたとつたえられている。
 「牢内打首」より一段と重い死刑は、牢内打首と同じ段取りで打った首だけをさらに梟首するもので「獄門」よばれるのがそれであった。多くの藩では竹三本を三股にむすんで、その股に首をはさんだものだが、会津藩では五寸角ほどの材木を高さ六尺ほどに二本建て、そのうえに三尺ほどの横木に鉄釘をうったのに首をうったのに首をさして曝した。この獄門よりもひとつ重いのが、「成敗」であった。
 成敗は牢内仕置場で執行される死刑の最も重いもので、刑場には三角形の「土壇」を築く。罪人ほ裸にして右脇を土壇に当て、右手は土壇に立てられた竹に縄でしばりつけ、左手は助手が引っばっている。そして正面かせ、罪人の左肩から右乳へかけて斜めに「袈裟斬り」わする。これがすむと別の土壇に捉えて首を刎ねる。ついでその首を土壇に埋め、額だけを露出させ、二人の刑手が板の両端をもって首の頭上を抑えている。その露出した額をやりで三カ所突いて、首を洗って獄門にかける。成敗か単なる獄門かは、額の傷でわかるのである。

服部 之総「黒船前後・志士と経済」