2016/12/01

召使いと奴隷は戦争になると軍に編入

 マスリウスが言うには、「クテシクレスの『時事録』によると、前310年頃にデオメトリス(前4-3世紀)がアッティカの人口調査をして、その結果アテナイの人口は2万1000、居留外国人は1万、奴隷は40万だとわかった。クセノポンが『租税論』で述べているように、ニケラトスの子ニキアスは1,000人の奴隷を所有していて、これを鉱山の鉱夫としてトラキアのソシアスに、1人1日オボロスの割で貸した。アリストテレスは『アルギナ人の国制』の中で、アルギナにも47万人の奴隷がいたと言っている。アガルタルキデス(前2世紀)は『エウロパ』の第38巻で、ダルダネイス人は、ある人は1,000人、・・・、ある人はそれ以上の奴隷をかかえていたと言っている。これらの奴隷は、平和時には農業に従事し、戦争になるとそれぞれの主人を隊長として軍に編入された。」
 ローマ人の役人であるラレンシスが言った、「ローマ人もそりゃたいへんな数の奴隷をかかえている。いままったく、ギリシアのお大尽のニキアスじゃないが、一万とか二万とか、あるいはもっとかかえているものがいる。ただ、大方のローマ人は、外出する時いっしょに連れていくんだ。アテナイの方をもって数える奴隷というのは、囚われの身で鉱山で働くわけだろう。さっきから何べんも引き合いに出されている哲学者のポセイドニオスだが、彼によると、アテナイの奴隷たちは反乱を起こし、現場監督を殺し、スニオン岬のアクロポリスを占領し、長い間アッティカを略奪した。これはまさに、シシリー島で第二の奴隷の反乱が起こった時だ。シシリーでは反乱が何度も起きて、百万以上の奴隷が死んでいる。この島のカレ岬出身の弁論家カキリウス(前1世紀)は奴隷戦争を扱った著作を公にした。また剣闘士のスパルタはミトリダス戦争の頃、イタリア人の都市カプアから逃亡して、非常に多くの奴隷たちに反乱を起こさせ(彼自身トラキア出身の奴隷だった)、全イタリアを長期間その渦に巻き込んだ。そして彼のもとへは毎日奴隷が川の流れのように集まってきた。もし彼がリキニウス・クラッススとの戦闘で討ち死にしなかったなら、シシリーのエウヌスの場合のように、わが同胞は大汗をかいたことだろう。

アテナイオス「食卓の賢人たち」