2017/06/14

Against the wars, public understanding is still rough and their sadness always is turning round, while their view of history is intrigued or their standpoint is ambiguous.

 工芸のことに関しては、一般の理解はまだ荒々しいものに過ぎない。残念なことに多くの人たちは、日々一緒に暮らす器物には、そう深く注意してくれない。始終身の廻りにある平凡な品物の領域であるから、それから真理問題を汲み取ろうとする人はほとんどいない。ましてそこに美の法則を見出そうとは考えてはくれない。もっとも私たちは今無数の醜いものに囲まれている。だから美の問題を身近くに考える機縁が乏しいのだともいえる。それに美のことなら、高く深い美術の領域が思い出される。これに比べれば工芸の世界など凡庸なものに映るであろう。だからこそそこに真理を探る人が少ないのも無理はない。だが日々の実用に使うという性質が、そんなにも美と遠いものだろうか。当たり前なものということは、そんなにも省る必要のない性質だろうか。
 工芸史家はどうであろうか。私たちは彼らの調べた歴史的委細から教わるものは些少でない。だが私たちが常に廻り会う悲哀は、彼らに知識があっても直感が乏しいことである。その証拠には彼らはしばしば美しいものと醜いものとを同じように賞める。玉石の判断がなかなかつかないと見える。だから記録は便りになるとしても、歴史観は心もとない。結局工芸への正しい理解の持ち合わせがないのである。特に工芸美に関する点に来ると立場は多く曖昧である。だが歴史家に価値認識が乏しいことは致命的ではないか。ただ史料に依る記述は工芸史観を産まない。
柳 宗悦「工芸文化」