市民というのは、中語でいうところの「士」の階級にあたるものをさす。士とは要するに武器をとって国家防衛に参加する義務と権利を有する装丁の謂で、上古には貴族の子弟に限られた者が、戦国時代から各国の国都における軍士の集団を意味し、秦漢時代には広く全国の農民までも含むに至ったものである。司馬遷の『史記』は実に中国において最初に、かかる市民を歴史記述の対象として取り上げ、出色の文字とされる「列伝」を書き上げたのである。このことは彼が、社会なるものは単に君臣関係からばかりで成り立つものではなく、時にはそこからはみ出した市民の生活によって支えられている事実を認識したものに外ならない。列伝に散見する個人の興味ある逸話等は、彼自身が採訪した独特の史料によるもので『史記』は言わば足で書いた歴史ともいえるであろう。そこに『史記』の歴史としての価値が存在する。
しかし司馬遷は歴史を、君主と官僚との君臣関係、及びそれを支える市民という個人に還元することで能事了れりとはしなかった。君主も官僚も市民も、その時々の社会制約の中で生活する。そこには制度があり経済があり道徳があり文化がある。司馬遷はこれらの社会的規範を「礼書」、「楽書」などの八書にまとめた。もちろんその内容は今日から見て甚だ不十分であるが、その意図は十分に汲みとられるち思う。中国の市民生活は漢代を頂点として以後は下り坂にむかう。そしてその後、六朝時代に現れたのは「士族」と称する特権貴族階級である。中国の歴史もそれにつれて、貴族の盛衰を中心に記述されるようになった。
宮崎 市定「中国文明論」
市民というのは、中語でいうところの「士」の階級にあたるものをさす。士とは要するに武器をとって国家防衛に参加する義務と権利を有する装丁の謂で、上古には貴族の子弟に限られた者が、戦国時代から各国の国都における軍士の集団を意味し、秦漢時代には広く全国の農民までも含むに至ったものである。司馬遷の『史記』は実に中国において最初に、かかる市民を歴史記述の対象として取り上げ、出色の文字とされる「列伝」を書き上げたのである。このことは彼が、社会なるものは単に君臣関係からばかりで成り立つものではなく、時にはそこからはみ出した市民の生活によって支えられている事実を認識したものに外ならない。列伝に散見する個人の興味ある逸話等は、彼自身が採訪した独特の史料によるもので『史記』は言わば足で書いた歴史ともいえるであろう。そこに『史記』の歴史としての価値が存在する。
しかし司馬遷は歴史を、君主と官僚との君臣関係、及びそれを支える市民という個人に還元することで能事了れりとはしなかった。君主も官僚も市民も、その時々の社会制約の中で生活する。そこには制度があり経済があり道徳があり文化がある。司馬遷はこれらの社会的規範を「礼書」、「楽書」などの八書にまとめた。もちろんその内容は今日から見て甚だ不十分であるが、その意図は十分に汲みとられるち思う。中国の市民生活は漢代を頂点として以後は下り坂にむかう。そしてその後、六朝時代に現れたのは「士族」と称する特権貴族階級である。中国の歴史もそれにつれて、貴族の盛衰を中心に記述されるようになった。
宮崎 市定「中国文明論」