朝鮮政府は、1894(明治27)年5月4日に甲午農民戦争が勃発、東学党軍は急速に勢力を伸ばし、苦境に追い込まれた。こうした中、朝鮮政府内部で農民反乱の鎮圧のために清軍の派兵を請おうとする動きが生まれた。この動きは5月下旬に朝鮮の日本公使館より日本政府に報告されていた。そして6月2日、前日の1日午後3時15分発の杉村代理公使の電報が到着、農民軍の全州占領と朝鮮政府が清兵の派遣を請うたという袁世凱の談話を伝えた。この電報を見た外相の陸奥宗光は、2日の閣議で朝鮮への出兵を提議、これについて討議されることになった。
この閣議の決定内容は、以下の通りのものである。
「朝鮮国乱内に起こり京城駐在公使館よりの来電に拠るに官兵頻に敗れ乱民益々脅威を窮むるの勢いの勢ありと云将来乱民京城又は其他の日本人居留地に侵入すること無きを保ち難く従て公使館及び国民を保護する為に兵員を派遣する必要あり」
「今度の事は急速の事変に係り我か兵を以て国民を保護をするを怠るへからざるか為に清国との連合派兵するを待たず条約の明文に従い行文知照し直ちに出兵するを適当とす」午後4時40分に外相の陸奥宗光は電報を朝鮮日本公使館に閣議とは異なる打電している。
「In case Higashigakuto revolt assume such magnitude as endanger safety of our residents or in case of attitude of China sends reinforcement, it may be become necessary for Japan also to send Japanese soldiers」
清国を主導者として日本を被動者として、閣議決定された即時先行出兵が対抗出兵に方針転換される日清戦争開戦過程に到るに至った。