映像の生成が思想と同時に、思想と同じ原子的速さで、起こるということを、どんな現われている事実も逆証しない。じっさい、物体の表面からの映像の流出はたえずおこなわているが、しかも、このことが物体の大きさの減少という結果となってわれわれに看取されることのないのは、たえず代りの原子によって補填がおこなわれるからである。そして、映像の流れは、ときに乱されることもあるけれども、長いあいだ、個体の面での原子の位置と秩序とを保持している。だがまた、周囲の大気中に、速やかに、集像が生じることもある。というのは、立体的に内部まで充実することは必要ではないからである。そのほかにも、このような実在を生じうる仕方はいろいろある。というのは、もしわれわれが、感覚は、われわれにたいし、外界の事物から、どんな仕方で明瞭性をもたらし、また、どのような仕方でその対応的性質、外界の事物に対応する性質、をもたらすであろうか、に着目するならば、これらの説明の仕方はどれも、感覚によって逆証されないからである。
エピクロス「教説と手紙」
エピクロス「教説と手紙」